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また、あなたに会いたい

このことについて書いても良いのか分からず不安だったが、自分の頭を整理するためにも言葉に残しておこうと思う。一個人の意見として読んでいただけると幸いです。

最近「命」について今まで以上に考えさせられることが多くなった。戦争に巻き込まれた人、東日本大震災に遭った人、身を削りながら必死に働いた(働かされた)人、事故(?)の犠牲になった人。それがなかったら生きていたはずの人の命。2度と繰り返してはいけない死。

でも、つい先日開催された東日本大震災の伝承活動のこれからについて考える交流会で感じたことがある。弱い立場の人は2度死ぬのではないかな、と(これはあくまでも私個人の意見)。世界各国の人から認められたり、社会に大きな利益をもたらしたり、テレビや新聞に出るくらい立派なことをしないと埋め立てられていく。忘れられていく。1年に一度、それが起きた日に追悼式とかがあるけれど、(全ての人にとってそうではないかもしれないけれど)たかが年間行事。「作業」としか思えない時がある。追悼式に向けて作った折り鶴が、追悼式が終わったら即行捨てられていくのを見て、「今日は一体何をしてたんだろう?」と思ってしまったことがある。そこに亡くなってしまった人を想う気持ちが本当にあるのかな。中途半端な気持ちでそのような式をしても良いのかな。あの日やあの人を忘れてしまわないように手を合わせているのか、行事だから手を合わせているのか…。

『リメンバー・ミー』というディズニー映画は多くの人がご存知だろう。メキシコが舞台で、亡くなった先祖とまた会うことが出来る「死者の日」についてお話。

(※ここからネタバレ注意)

家族らは死者の日に向けて、沢山のごちそうを作ったり、町をカラフルに飾ったり、ご先祖様が家への帰り道が分かるように花びらで道を作ったり、音楽を奏でたり…。ご先祖様にまた「会える」ことがとても楽しみそうな様子が描写されている。生者の世界へとやって来るご先祖様たちも、まるで旅行に行くみたいにワクワクした様子が描かれている。しかし誰にも祭壇に写真を飾ってもらえない死者は、生者の世界に行くことができない。そして、その人は人々の記憶から消えていなくなる。つまり、忘れられると、その死者は「2度目の死」を迎えるのである。

(※ネタバレ終わり)

「また抱きしめるまでは忘れないで。」「思い出して。」リメンバー・ミーの中で出てくる言葉だ。私は「また、会いたい。」という想いに全てが詰まっている感じがする。確かに、安らかにお休みくださいと言って空へと「送る」ことも必要だけど、もう一度大切な人に会うために「迎える」場所も必要なのではないかな。でも、その会える場所がとことん奪われていく。もう会えない状態にされる。今でも家族に会えないままのたくさんの犠牲者がいるはずだ。そんなことを言ったらキリがないと言われるかもしれない。「じゃあ、お前が全員探してみろよ」と言われたりしたら、とても情けないが無理だと思ってしまうだろう。でも、自分の性格がとても悪いことを承知で言うが、そこにすごい偉い人とか、メディアでがんがん取り上げられるような人がいたとしたら、絶対に埋め立てたりとかしないで必死にその人を捜すんだろうなと思ってしまう。普通の人だから捜してもらえないし、忘れられるんだろうなと思ってしまう。(こう思ってしまう出来事が身近で起きたから。)ただただ、どうしてそんなにも命がぞんざいに扱われてしまうんだろうと悲しい。「会わせたい」とか、「会いたい」とか、エゴだと思われてしまうかもしれない。だけど、また会えるかもしれない場所を奪わないでほしい。どうしてもその場所を壊さなければならないのだとしたら、その人たちがいるかもしれないということを胸に刻んでほしい。忘れないで、家族にまた会えることを祈ってほしい。千羽鶴折って、形だけの祈りで終わらせないでほしい。犠牲になった方に心から想いを馳せる場所を、瞬間を持っていてほしい。心臓が止まった瞬間、命の価値が失われて、テキトーに語られるなんておかしい。

「当事者家族でもないのに何が分かるんだ」「性格が悪い」と、思われるかもしれない。無責任なことを言って誰かを傷つけてしまっているかもしれないから、命について書くのは本当に怖い。これを読んで辛い思いをさせてしまったら本当にごめんなさい。

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