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彼らはなぜ叫ぶのか

大学も始まり「心機一転頑張るぞ」と心に決めたのに、GW明けの5月病も相まって、課題も授業もままらなくなってしまった。研究で被災地を取り上げたのだが、怒りや悲しみが止まらない。「彼らの悲痛な言葉、それでも必死に前向きに生きる言葉がこれだけあるのに、どうして何も変わらないんだろう」。これだけ多様な人が生きている世界で、自分たちが思っているように社会が変わるわけないのは分かっている。すべてがすべて悪い方向に進んでいるわけではないことも分かっている。私が社会を変えられるなんてできたことではないなんてことも当然分かっている。被災地だけの問題ではない。昨年の旅でもたくさんの言葉を聞いてきたし、たくさんの人の痛みを見てきた。その度に「たくさん聞かせてもらったのに、私は聞くだけで良いのだろうか。」「何もしなくて、彼らが自ら命を絶ってしまったらどうしよう。」「でも変に何かして彼らをさらに傷つけてしまったらどうしよう。」そんな不安が頭をよぎる。誰も私に「何かしてくれる」なんて期待していないだろう。彼らは私が思っている以上に強い人間だとも思う。だけどいつも誰かの「死」や「絶望」の恐怖が私から離れない。被災地のニュースを見れば「ふるさとの未来を担う子どもたち」という言葉。子どもたちの未来を犠牲にして、ふるさとの未来を築いていかなくてはならない時代になってきているのかと悲しくなる。そんな時に、彼らの言葉がよみがえって、涙があふれてくる。

このような悲しみを何とかするために、お金も権力もない自分に何ができるのか。社会学の力を借りて、言葉で伝えるしかない。でも、その言葉が(若い人は特に)消費されるだけなんじゃないか。最悪、賞味期限ギリギリの震災トークなんてものは誰の目にも届かないのではないか。そう思うと、自分がただただ好きでしていた社会学も最近は嫌いになってきた。こんな勉強して、何の役に立つんだろう。未来が見えてこないのに、何でこんなことしなくちゃいけないんだろう。完全にやる気を失ってしまった。これを言うと、「意識高い系」と言われる。大ダメージを食らった。現在進行形で苦しいのに、なんでそんな軽く扱われなきゃいけないんだ。私だって、そんなこと考えなくても良いんだったら、考えたくない。

まだ読めていないけれど、山川健一さんの『アイデンティティ・クライシス 死ぬな、生きろ。』という本の目次に「言語は弱者が生き延びるための道具なのだ」と書いてあった。それを見て、彼らにとって「生き延びる」ってどういうことなのだろうか、変わらない世界で彼らは何を期待して叫ぶのだろうか、という疑問が浮かび上がってきた。誰かに事実を知ってほしい、というよりかは、言葉を発することで心の安定が保たれるからだろうか。誰かが聞いてくれるだけで、救われるという気持ちになるからなのだろうか。

言葉や弱者(弱者という言葉は好きではないけれど)との向き合い方が分からない。

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