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「お前の鬱がうつったわ笑」

大好きだった人と大喧嘩したときに言われた言葉。私にも悪かったところがあったとは思う。私の落ち込みやすい性格が、知らないうちにその人の心を蝕んでいたのかなとも思う。疲れさせてしまったんだと思う。言われた当時は、もちろん泣いたけど、「なんだ、このゴミ糞カス野郎」みたいな感じで、すぐに乗り越えられた…と思っていたけど、意外とその言葉がトラウマになっていたなと最近になって気づいた。思い込みすぎかもしれないけど、自分の存在を全否定された気がした。

私は、震災前から環境の変化に弱かった。外食、学校行事での旅行…とにかく、家や家族から離れて何かをすることが苦に感じることが多々あり、よく吐いていた。そんな私に降り注いだ、東日本大震災。最初の1年は本当に地獄のような日々だった。環境に慣れるのに必死で、周りの事なんか考えられなかった。それでよく、「わがままを言うな」「生意気な口をきくな」と言われた。ランドセルに「生意気な口をきかない」という手紙を入れて持ち歩いていた時もあった。それだけでも苦だったのに、私の家族には(私を含め)毎年毎年問題を起こす人がいる。人や環境のせいにするのは間違っているけど、落ち込みやすい性格をどうにかしようと思っても、直せなかった。こんな状況で、直せるわけがないじゃん、といつも思っていた。

まあ、それはさておき。「お前の鬱がうつったわ」と、笑いながら言われたことは今でも思い出す。特に、落ち込み期が来た時に。「自分のせいで、傷ついてないかな」「自分がいるせいで、嫌な思い出にしていないかな」そんなことをずっと考えながら、人と関わり続けてきた。嫌われないように、見捨てられないように、頑張ってきた。

でも、最近はそれにも疲れてきてしまった。私のひねくれた優しさや気遣いは、恨みや被害妄想に変わりつつある気がする。「どうしてこんなに頑張ってるのに、理解してくれないの?」「どうして、離れていっちゃうの?」自分も大切にできないし、相手のことも大切にできなくなってきた。

「お前の鬱がうつったわ」は正しかったのかもしれない。私が自分を嫌い続ければ、それを見ている相手も悲しくなる。「どうして何もしてあげられないんだろう」って落ち込ませてしまう。

何度も何度も「どう生きたら良いんだろう」と考え続けた。でも、ずっと嫌ってきた自分のことがちょっと気の毒になってきた。どうせ、私のことを嫌う他人がいるし、私の落ち込みやすい性格を嘲笑ってくる他人もいるんだったら、せめて私1人でも私のことを肯定してあげても良いのかもしれない。確かに落ち込みやすい性格はすぐには変えられないかもしれないけど、「外食できるようになったじゃん!」「一人で海外も余裕で行けるじゃん!」ってちょっとした変化を褒めてあげても良いのかもしれない。もしかしたら私が幸せな気持ちになったら、鬱がうつった時みたいに、幸せが私の大切な人たちにうつっていくかもしれない。

全てをトラウマにしたり、足枷にしてしまわないようにしたい。むしろ、私がより良く生きるための教訓にしていきたい。鬱をうつしてしまってごめんね。私の性格を面白い駄洒落で表現してくれてありがとう。私は私の正義を信じて、私のための幸福理論を築いていきたい。

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