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「悲劇のヒロイン」から抜け出したい

語り部(語り部というほどのことをやっているか分からないが)をやっていると、自分自身の経験や気持ちを語っているはずなのに、だんだん自分ではなくなっていく感覚がある。いや違うか…自分ではなくなっていく感覚というよりかは、辛くなるだけだから語り部を続けたくないけど、語り部をすると皆に受け入れてもらえる感じがして、でもそれでは本当の自分ではなくて「『大熊町出身』の私」だから受け入れてもらえるのかなと思って、そんなの嫌だから「さっさと大熊町から抜け出そう」と思っても皆に受け入れてもらえることに快感があって、でも自分が大熊町や語り部に関する愚痴を漏らすと大人の皆さんに(私も大人の年齢だけど)謝らせてしまって、そんな自分が嫌になって…語り部を終える度に自分への嫌悪感が増していく。居心地最悪だけど、でもここにいると自分を認めてもらえる。大嫌いな場所だけど帰ってくるとなぜか落ち着く。もう、どうしようもなくなってしまっている。それに、国や大熊町、大人に全ての責任を押し付ける、こんな語り部がいちゃって良いのかなとも思う。そして最終的に「どうしてこんなに悩まなきゃいけないんだろう、なんでこんなに辛い思いをしなきゃいけないんだろう」と、悲劇のヒロイン状態になってしまう。こんな自分を「私」として認めたくなくて、結局自分のことが分からなくなる。
そんなこんなで、「町から逃げても良いんだよ」と言われても逃げることができなかった。大熊町を、福島を抜け出したら誰も認めてくれなくて自分が何者なのかが分からなくなってしまうと思った。でも最近福島以外の所を訪れるようになって、たくさんの人が逃げる場所をくれたし、そもそも逃げ場を作ってくれていた人が福島にもたくさんいたなと思った。どうしてこんなに辛いのかなと思った時もあったけど、そういう状況に追い込んでいたのは自分自身なんだと改めて気づかされた。私の周りには「『大熊町出身の』私」ではなくて「私」に手を伸ばしてくれている人が沢山いた。そしてその手は温かく繋いでくれるものだけど、繋いだら一生放さないで拘束するものではなくて、違う手を繋ぎに行っても良いんだよと優しく放してくれるものだった。でも、放していてもずっと繋いでくれている感じ。それなのに私はその手を疑って、何度も払いのけてきた。きっと、そうやって払いのけて悲劇のヒロインでいた方が、自分は変わらなくて良いから、なんだかんだで楽だったんだろうな。

自分が何者なのかが分からなくなっていることを宏子さんに話した時、宏子さんは「全部あなたなのではないか?」と言ってくださった。時々悲劇のヒロインになってしまうのも私だし、そんなの自分じゃない!と抗うのも私だし、スタートダッシュ飛ばしすぎて後半疲れてしまうのも私だし、すぐ泣いてすぐ怒ってすぐ機嫌が直って元気になるのも私。でも、こんな私でも傍にいてくれる人がたくさんいる。悲劇のヒロインから抜け出したい。だけど悲劇のヒロインになっちゃう私を嫌うんじゃなくて、認めてあげても良いのかなとか思った。それでも嫌になったら、思いきって皆さんのところへ逃げるようにしたい。逃げるのって、自分や町と向き合っていくための休養期間だと思うから(多分)。

何だかまとまらない文章だけど、何が言いたいのかと言うと、何度もずっこけてしまうかもしれないけど、私はちゃんと私や町と向き合いたいし、私も皆さんみたいに、何となく疲れてどこかへ逃げたくなっている人に、いつでも優しい手を伸ばせる人間になりたい。


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