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言葉は痛くて、でも優しい

この間、友人と久々にお出掛けをした。ランチ中に卒論の話になった。その時に友人は「国会の中継とか見てて『責任』っていう言葉がよく出てくるけど、その言葉を聞くたびに呆れてしまう」と言っていた。私はその言葉にとても共感した。「責任」だけじゃない。「復興」もそう。あまりにも無責任に発せられる言葉が多すぎる。
「町民に帰ってきてほしい。」じゃあ、なぜ住む家を確保してくれないのか。じゃあ、なぜ数年で出ていけと言うのか。「町を復興させたい。」じゃあ、なぜ町の復興のアピールをするためだけに町民を遠くから駆り出して、後は放置なのか。

信じた言葉に何度裏切られれば、何度傷つけられれば良いのだろうか。どうして偉い人たちは嘘をつくのか。ここに書いてある言葉もきっと「感動もの」として消費されて終わりなんだろうな。言葉は苦しみを帯びれば帯びるほど、消費がいがあるからね。彼らの言葉の中にある嘘も、偉い人たちの前で発する自分の言葉の嘘も、とても痛い。

でも痛いだけではない。優しく発せられる言葉もたくさんある。私は友人にこれまで町民に向けられてきた言葉に対する鬱憤をぶちまけた。彼女には、よく泣きながら色んな愚痴をぶちまける。彼女はボキャブラリーが豊富で、話すたび、その返答の素早さとユニークさに笑わせられる。でも私が悩み相談をする時は、「ああでもない、こうでもない」というような表情をしながら、喉から絞り出すように返答してくれる。私のどうしようもない悩みで彼女を困らせてしまってはいるけど、そういう彼女の様子を見ているだけでもとても元気づけられる。そして、そうやって相手を本当に思って出てくる言葉は本当に優しい。

言葉は目に見えない。でも、一生立ち直れなくなるくらいの暴力にもなり得ると思う。私もその暴力をふるったことがある。今更後悔しても遅いけど、今でも後悔している。それなりに信頼があれば、言葉の中にある多少の嘘や裏切りを受け入れることができる。許すこともできる。町民は「何とかしてくれる」とお偉いさんたちに期待しているのに、嘘と裏切りを重ねて、信頼を失って…。こんな悪循環を生みだしてばかりで本当に良いのだろうか。「復興」させるための、「責任」を果たすための、人手が足りなかったら助けを求めれば良い。それか「復興させるのは無理です」「責任を果たすのは無理です」と言ってほしい。言葉のもつ力を、もっと良い方向に使うことはできないのだろうか。

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