生きがいが炎上した話

あなたには、人生を救われた推しがいますか?このために生きてきたと思えるくらいに愛するものがありますか?

私には、人生を救われた推しがいる。宝塚歌劇団宙組である。大学受験と祖母の介護、祖父の認知症、それに伴う色々な家庭の問題、高校の人間関係の悩みで人生に絶望した私の前に突然現れたのがHiGH&LOW THE PREQUELとCapricciosa!!だった。ホームドアのない駅で毎日のようにここから飛び降りたら楽になれるのかと悩み、賠償金額を調べては踏みとどまることを繰り返して自暴自棄になっていた私が何とか生きられたのは宙組のおかげである。初めては配信だったけれど、このために私はまだ死んでいなかったんだ、世界にはこんなにも綺麗で素敵なものがあるんだ、私はこのために生きてきた、素直にそう思えた。灰色だった世界が煌めいて見えた。そこからは歴代の推しに沼った最速記録を更新する程にずぶずぶと沼っていった。私がハマった当時にトップスターだった真風涼帆さんの退団公演には関東在住にもかかわらずムラ(兵庫県の宝塚大劇場)に行ったし、バイトも始めていない大学生の身でありながらホテルと抱き合わせのプランで3列目のS席を取るくらいにはハマった。そのくらいの衝撃だったのだ。ハマってすぐにTwitterのアカウントを新しく作り、たくさんの優しい先輩と仲良くなったし、明日が楽しみになった。Twitterのご縁でご贔屓のお茶会(ファンミーティングのようなもの)にも行った。幸せで仕方なくて、死にたい気持ちが小さくなっていった。でもそんな幸せな生活は長く続かなかった。
思い出すだけで辛い上に真偽が未だに分かっていないから詳しいことはここでは省略するが、週刊誌に記事が掲載された。私はその記事を信じられなかった。今でも信じてはいないし、捏造だと思っている。だけど、私は人生の希望を否定されても信じ続けられるほどメンタルが強くない。インターネットから離れて、別の推しに逃げた。地獄だった。愛しているものがたくさんの人に批判され、たくさんの言葉のナイフが飛び交っていた。事実が分からないままなのに報道が真実だと決めつけて批判する人たちにうんざりした。そこで私はブロックやミュートを駆使して気の合う人としか交流しないようにした。この対処は逃避なのかもしれないけれど、私にとっては世界を生きやすくするための必死な手段だった。段々ほとぼりが冷めて、信じられるメンタルになれてまた宝塚を観る生活が始まった。そこからも小さな火種は消えなかったけれど、平穏な日々が続いていた。
ここで終わりだと思っていたけれど、本当の地獄はここからだった。宙組の生徒さんが自ら命を絶ったのだ。すごくショックだった。その日の記憶は曖昧で、夢を見ているような感覚だったことだけを覚えている。もちろん彼女は私を知らないけれど、私は彼女を知っているし、好きだし、彼女の歌に救われている。そこから彼女が何故そんな決断に至ったのかの憶測が流布された。彼女は肯定も否定もできないから、私はただ彼女が安らかに眠れることを祈り悼むしか出来ない。週刊誌報道がなされ、彼女の遺族がコメントを発表した。彼女の遺族のコメントはとても冷静で、とても常識的で真摯だった。それに対して、劇団側の動きは不透明だった。私は企業の判断に口を挟める立場ではないし、所詮は部外者だから何も言う権利はないかもしれないけれど、私が彼女の遺族だったら怒り狂っていた。過重労働とパワハラが問題視され、私の愛する宙組は批判された。批判されても仕方ないくらい問題があったことを頭では分かっているけれど、心が追いつかない。今でも受け入れられていない。愛していて私を救ってくれた人達が誰かを苦しめていたかもしれないという事実はあまりにも大きくて、辛い。私は彼女を含めた人達が命を削って献身して創り上げた美しい舞台で救われたのかと思うと足元がぐらぐらするような不安に襲われる。舞台の裏で何が起こっているかは私には分からない。ただ、舞台の裏で誰かが泣いているのなら、そんな悲しいことはないと思う。現実を忘れるための夢も私と同じ人間が創っていて、辛いことも多いのは理解しているつもりだったけれど、私は消費者でしかないから無意識に目を背けていた。本音を言えば、キラキラしている夢であってほしかった。現実を持ち込まないでほしかった。消費者にも責任の一端はあるかもしれない。だけど、出会ってしまって愛してしまったことを罪のように言わないでほしい。その言葉は私がこれまで生きてこられた理由をズタズタに切り裂く刃だから。綺麗なものを見て愛して、その裏の汚い部分を暴かれて、これまでの生きがいを否定されているのに、重すぎる責任を負わせないでほしい。
「この状況でオタクをやめない意味が分からない」
そう思う人もいるだろう。自分自身の推しじゃなければ私もそう思うかもしれない。だけど、身に降りかかってきて初めて分かった。そんなのは綺麗事だ。やめられるならやめている。救われたのは事実だし、好きな気持ちはなくなっていない。これが正しいのか悩みながら離れられずにいる。こんなことを思うのは私に依存癖があるからかもしれない。だけど、私がここまで生きてこれたのは確実に宙組のおかげなのだ。だから、好きであることを否定する言葉を投げないでほしい。思うだけで留めておいてほしい。このままで良いなんて誰も思っていない。好きだから、愛しているから、離れられないこともあるし、愛しているから離れることもある。それは個人の判断で、他人が介入していいものではない。自分の価値観を他人に押し付けるのは誰も幸せにはしてくれない。幸いにも私の周りにいる人たちは推しに依存しなければ生きていけない気持ちを分かってくれる人達だ。でも、ひとたび顔が見えなくなると対面では絶対に言えないような言葉を発することが簡単に出来てしまう。このnoteを書いたのはそんな押し付けに押しつぶされないためで、棘のある言葉の応酬に流されないためで、私自身の気持ちの整理のためだ。1人では幸せになれず、何かに依存して毎日をやり過ごしていく。こんな人もいることを知ってほしい。受け入れなくていいから、否定しないでほしい。
エンターテインメントの世界は美しい虚飾を売っている部分が多いのだろう。誰かを幸せにするために自分が幸せになれないなんて悲しすぎるから、好きを搾取することがなくなり舞台裏の現実が苦しくて汚いものでなくなるようにしてほしい。

最後に、正しさは凶器になる。これだけは忘れないでほしい。言葉を投げる前に、ナイフを投げる前に、ひと呼吸おいてみてください。それだけで泣く人が減るから。

長文乱文失礼いたしました。ここまで読んでいただきありがとうございました。

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