二つの世界

『精霊の守人』(上橋菜穂子原作・藤原カムイ作画)を読みました。
原作は大学生の時に読んだので、約10年ぶりです。

当時はよくゼミで、”二つの世界”についてのトピックが出ました。
精霊シリーズにおける「サグとナユグ」、カルロス・カスタネダのドン・ファンシリーズにおける「トナールとナワール」のこともやりましたね。

当時は坐禅の習慣がなかったので、その議論はぶっちゃけ抽象的でした。
ゼミ生たちも半信半疑で、ほんとにそんなものあるんかい、という感じ。
でも今では、だいたいそっち方面の知識と実体験も、多少身についてきています。

ほんとにあったんかい。
それが今の感想です。

ナユグやナワールは、ざっくりと言って”精霊の世界”です。
時間軸がない、ものごとの根本原因である種子(ビージャ)がいまだ未発達の世界。
イマージュ以前の世界、深層意識の領域。彼岸。
そう捉えてもらって間違いないです。

逆に普通の人が生きているのは、サグやトナールのような表層領域です。
物質の凝固性が高い、分節が半固定されたレイヤーです。
井筒俊彦の言葉でいうと、”意識のM領域”よりも上の方。
此岸、俗世界ですね。

気合を入れて坐禅をやっていくと、霊的な器官であるチャクラ(≒丹田)が発達します。これは筋トレと一緒で、やればやるほど鍛えられます。

坐禅はおそらく、首から上のチャクラを鍛えます。
気が上りやすくなるのもそのせいです。
また、知性を劇的に向上させる効果があります。
ここで上がった気を、うまく下げる作業をしてバランスをとらないと、だいぶアブない人になってしまいます。頭の中がF1カーみたいになって、周囲の人が話についていけなくなります。

『精霊の守人』で精霊の卵とされているものは、ボディーワーク的にいうと、間違いなくチャクラです。仙道なら仙胎とか霊胎とでもいうのでしょうか。

チャクラが発達すると、深層領域の世界が見える。
これはヨーガだろうがチベット密教だろうが、あらゆる修行カルチャーなら共通事項です。

ただし人によって、適正や相性があるようです。
坐禅をいくらがんばっても、何にも見えてこない人も多数います。
そういう人は残念ながら、このトピックは蚊帳の外になってしまいます。
坐禅に強いのは体癖でいうと、9種や1種でしょう。アングロサクソンに多い5・6種には、身体性の面から向きません。
現代日本人の身体は急速にアングロサクソン化しているので、坐禅に不向きな人が増えているといえます。

今の日本人はどっちかというと、観想修行に適性がありますね。
漫画を描いたり小説を書いたりと、イマージュの世界を縦横無尽に駆け巡ることは、深層領域の探索と、ほぼ等しい意味合いを持っています。
こんなことを言うのは日本で私くらいでしょうけれど、日本の分厚い漫画カルチャーは、真言密教の観想修行の土壌が大きいと思います。観想が草の根レベルで根付いている。

ユング派の奥義に「アクティヴ・イマジネーション」というものがあります。
あれと観想修行の基本事項は、一緒です。
観想修行には、無意識領域を意識化するという明確な目的があります。
観想修行が心理療法とも重なってくるのは、どちらもお題目が共通しているからです。

そして無意識の意識化というテーマは、ボディーワークにおいてもそうなのです。
自己洞察だけでなく、体の隠された連動性や関連性を解き明かすことも、深層領域の世界を探るための、重要なマテリアルになります。

”精霊の世界”が見えてくるのが、坐禅の一番面白い部分です。
夢の解像度が明瞭になってくるし、夢の中における身体感覚が変化してくる。
また、夢の中でもどれが重要な情報で、どれが記憶のゴミ掃除の残りかすなのか、だいたい検討がついてきます。

すると不思議なことに、予知夢の能力がついてきます。
といっても自由自在というわけでなくて、一方的に受信する能力だけが発達します。
少なくとも、私の夢はそうです。
地デジにBSが追加された、みたいな感じ。
受信した情報がいつ表層世界に反映されるのかは不明で、2年越しくらいにやっと夢の意味が分かったりします。

自分の身の周りに起きる危険情報が勝手に流れ込んでくるので、その点は便利です。
あれはたぶん論理性によって演繹した情報でなくて、直感が拾っちゃうのでしょう。
根本原因である種子そのものは、ナワールにたくさん詰まっている。
深層領域は情報の貯蔵庫にして、表層意識の土台です。
その中から、直感が勝手に関連性の高いものだけをすくい上げて、夢の中でヴィジュアライズしているということです。

チベット密教では、観想修行を通じて育て上げた己の分身をギュルと呼びます。
ギュルパ(ギュルを持つ人)は自分がこの世界に生まれてきた意味と役割を、ギュルを仲介として、明確に自覚できています。自分が何の縁にも因らず、無根拠に生まれてきた存在でないということは、この世界の因果律や縁起律から承認されているということです。

承認欲求の強い人とは、自分の役割をいまだ知らない人だと私は思います。
というのも、自分の生を肯定する力は、本来自分自身が持っているからです。
整体の観点では、自己肯定力は臍下丹田に宿ります。
先に書いたことと統合すると、臍下丹田という霊的器官を介して、「己の生まれてきたルーツを知る回路が開いている人」がギュルパだとも言えます。
ギュルパは自分自身の種子を知る人、と言いかえてもいいかもしれません。

ここまでの話がすんなり通じるのは、ヨーガやボディーワークや観想修行を最低数年積んだ人です。ヨーガで修行を積むとシッディ(神通力、『ジョジョ』のスタンド能力みたいなもの)が身につくのは常識です。
そしてこれらの修行には、おそらく血筋の力が絶大な影響を及ぼします。
ピンと来た人は、ほぼ業界人でしょう。でなければセンスがあります。

漫画の話も、あながち荒唐無稽ではないという話でした。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?