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「わかりません。」グセがつく現代教育に物申す

「はい、それでは田中くん。問い5の答えは?」

「えっとー・・・わかりません。」

おこんばんは!おじゅんです。

こんなシーン、中学、高校でよく見かけたんじゃないでしょうか。

先生に当てられたけど、答えがわからない。

外すくらいだったら「わかりません。」と言おう・・!みたいな。

恥をかくくらいなら、諦めてしまおうというアレですね。

今、その教育の弊害を実感しているのです。

「調べてみたんですけど、わからないです。」

今、未経験エンジニアの指導も業務の一貫で行っているのですが、

「わかりません。」の丸投げ具合がスゴいんです。

いや、もちろん経験がないからわからないことが多々あるのはよく分かります。

私だってまだまだ経験浅いですし。

それでも、「この資料を見て、ここまではわかったんですけど、その先のここのリクエストにどんな値を設定すればいいのかわからない」というのと、

「調べてみたけど、わからない」では、

天と地ほどの違いがあるのだ。

前者の場合なら、

「ああ、それならこっちの資料に設定すべきパラメータ一覧が載っているよ」みたいな言い方ができ、一言で解決できたりするけど、

後者の場合は、

「えっと、、調べたっていうのは、何を調べたの?わからないのは、具体的にどの部分がわからないの?」というところから始まる。

しまいには「そもそも今何やってるかわかってる?全体像が見えてる?」みたいな話になりかねません。

日本人は簡単に「わからない」と言う癖がついてしまっている気がするんです。

恥をかくくらいなら「わからない」と言おう

冒頭の話に戻ります。

簡単に「わからない」と言ってしまう原点は、日本の教育にあると思ったのです。

私もエンジニアになる前までは、簡単に「わからない」と言う人間でした。

ただ、エンジニアになって、"わからない"にも段階があることが分かりました。

まったくわからないのか、

途中まではわかるけど、それ以降わからないのか、

最後の最後の部分だけわからないのか。

これらは全て"わからない"ですが、状態は全く異なります。

「まったくわからない」の人は、割りと早々に「わからない」と言い、

「最後の最後だけわからない」の人は、それまでにたくさん調べ、頭を回転させ、予想を立て、、、という過程を経ての「わからない」です。

簡単に「わからない」と言ってしまうのは、

現代教育の元、「わからない」と発言することに違和感を感じなくなってしまっているかではないでしょうか。

日本の教育に提言したいこと

日本の教育はたった一つの答えを求め過ぎているように感じます。

「真実はいつも1つ!」


とあるメガネの少年探偵は言っていましたが、

「私はこう思う。」

「僕はこう思う。」

そんな色んな答えがあって、それを発言させるような機会を設ける教育が、もっとあっていいんじゃないかと思うのです。

同時に、日本人の自己肯定感の低さは、"答えを一つしか認めない教育にある"んじゃないかとも思うのです。

「東京から大阪へ行く方法はどんか方法があるでしょう?」

「車!」

「バス!」

「新幹線!」

「人力車!」

みたいな。

1つしかない答えを求める教育にするのではなく、

自分の頭で考えて、答えを生み出し、認め合う教育をもっともっと増やしていくべきなんじゃないだろうか。

1個しかない答えを当てろったって、そら「わからない」と答えたくもなるだろうよ、と思うのです。

自分の頭で考えて、自分の意見を言うことの大切さ

はい、というわけで"わからない"には段階があるよねって話から、現代教育について物申してみました。

"わからない"ことは勿論悪いことではありません。

ただ、簡単に「わかりません」っていうのもなんだか塩っぱいなと思いまして。

エンジニアなんかは、そのわからないがわかった瞬間が面白いんだけどなー。

「さすがおれ!天才!」みたいになるんですよね。

はい、すみませんでした。

もし高校時代の私に一言物申すなら、

「恥ずかしいからわからないと言うくらいなら、言って恥かきなよ!」ですかね。

ではでは、今日もありがとうございました。

おじゅん

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