約束継続中

 バスから降りた途端、刺すような冷たい風が吹いてきて、反射的にマフラーを口元まで上げた。三つ編みを切らなければ良かった、首元に忍び込む冷気を感じる度に思う。夏が来る度に切って良かったとも思うけど。

 スーツケースを引きずりながら少しだけ歩いて、既に見慣れたキャンパスに入る。自動ドアを抜けると、途端に先程とはうってかわって生温い風が吹き付けた。寒いよりは良いけど、寒暖差で風邪を引きそうでもある。外の温度が室内の温度に合わせてほしい。

 セキュリティゲートに学生証をかざし、エレベーターに乗って4階へ。目的の研究室の前でまた学生証をかざして解錠……しようとしたけど、ドアの隙間から明かりが漏れている。ドアを開けると、机に伏せる見慣れた後ろ姿。私より早かったか。

 スーツケースを置いて後ろ姿に忍び寄りつつ、鞄にしまっていた無限プチプチを取り出す。そして彼女の耳元でプチプチした。

 プチ。プチ。プチ。プチ。プチ。プチ。プチ。パオン!

「象!?」

 跳ね起きた彼女は慌てた様子で辺りを見回した。ヘアゴムでまとめられた素色の髪が私の鼻先を掠めたのが少し怖かった。彼女は私を見て、手元を見て、首を傾げる。

「今、確か象の鳴き声が……」

 彼女は……那由他は状況がよくわかっていないようだった。まさか無限プチプチから発せられた音だなんて思いもしないだろう。再びプチプチすると、今度は13回目でようやく「BOMB!」と鳴った。

「10回に1回くらいレアな音が鳴る無限プチプチ」

「……そうなんですの? ……ラビさん、またいらないものを買いましたの?」

「那由他を起こすための道具を買っただけ」

「もっと優しく目覚められるものがいいですの!」

 那由他は頬を膨らませてぷりぷりした。相変わらず全く怖くない。

「それより教授は? 那由他はまだ鍵を開けられないはずだけど」

「パパは用事があるって出ていって、私はお留守番中ですの。それに、来年には私もここの学生ですの」

「不祥事を起こさなければ」

「起こしませんの!」

 ここに推薦が決まった那由他は、受験勉強もせずに余裕そうだった。とはいえ一年前の私も似たような感じだった手前、特に那由他に対して言えることはない。

「ところで、教授は何の用事で出て行ったの?」

「私も知りませんの。ただ、書類の提出がどうとかで慌てていましたの」

「なるほど。そんなに長くならなそうならいいけど」

 その時の様子は容易に想像できた。教授とも一緒に暮らし始めてから知ったことだけど、那由他の抜けている部分はどうやら遺伝らしい。本人は無意識のようだが、あれで意外とあざといところがある。そういう場面に出くわすと、改めて那由他と教授は親子なんだと感じる。

「…………」

 那由他をじっと見る。もっとも、教授があざといと言っても、やはり那由他には敵わない。もはや芸術の域といっても過言じゃない。いつだったか「可愛い人」と評したとき、後日サーシャも「那由他ちゃん確かに可愛いですね♪」と言っていた。「ラビちゃんが恋しちゃうのもわかります♪」なんて余計な一言も付いてきたけど。

 那由他は私の視線に首を傾げた。様々なことを経験して多少表情も大人びたけれど、やはりふとした瞬間にあどけなさが覗く。私はその瞬間が好きだった。今この部屋には二人きり。少しだけなら大丈夫だろう。手を伸ばして頬に触れようとする。

 ……床を打つ足音が近付いてくるのが聞こえた。聞き慣れたその足音の主はすぐにわかった。伸ばしかけた手を引っ込めて素知らぬ顔を作る。ガチャリとドアが開き、思った通り教授がその向こうから現れた。

「おや、ラビも来たのか」

「はい。那由他がこっちに寄ってから行くと言ってましたし、ついでに私も一度寄っておこうと思って」

「そうか。何か聞きたいことでもあったかい?」

 自分専用の一室の鍵を開けながら教授が尋ねる。代表作の上下巻が誇らしげに飾られているのがちらりと見えた。

「私は来年から通う大学の下見ですの」

「もう何度も来てるでしょ……。私は那由他が迷子にならないようにと」

「なりませんの!」

「使用人なので」

「もう使用人じゃありませんの!」

 私たちのやり取りに、教授は笑みを漏らした。一時期は常にどこか下を向いていたけれど、最近は表情が柔らかくなった。かつて諦念を共有した者として、私はそれが嬉しかった。

「……そうだ、偶然二人とも揃ったことだし、出発前におさらいしておこうか」

 教授は那由他の隣の席に座った。私も座るように視線で促されたけど、首を横に振って断った。どうせ話が終わったらすぐに発つ予定だし、飛行機では嫌というほど座ることになるだろうから。初めて一緒に飛行機に乗ったとき、表情を輝かせていた那由他が、降りるときにはグロッキーになっていたのは面白かった。

「今回はイタリアですよね?」

「そう。もっと具体的にはローマだね。今回二人に調べてきてほしいのは、」

「古代ローマ魔法文明ですの!」

「その通り」

 那由他はドヤ顔をした。今の那由他は果たして何歳だったか。

「以前から話していたとおり、古代ローマには非常に多くの魔法少女がいた。コロッセオなんかはまさしく、魔法少女同士の闘技場だ」

 ……以前ほど魔法少女は秘された存在ではなくなったとはいえ、やはり魔法少女真実というものはいつ聞いても中々強烈だ。とはいえ、ジャンヌ・ダルクもかぐや姫も魔法少女だったわけだから、私もいい加減慣れるべきなんだろう。教授は本棚から一冊を手に取り、私たちの前に開く。

「彼ら……というより彼女たちだね……は魔法による文明を築いていた。現在のマギアストーン活用の基礎には、散逸した古代ローマ魔法文明の書物が大きく貢献しているし、その文明の高度さは疑いようがない。だが……」

 教授はページを捲り、大災害じみた絵のページで手を止める。

「ある時、原初の魔法少女によって滅びた。怒りに触れたのか、ただの気紛れなのか……。書物に残ったのは一部で、多くのものが失われた。もちろん、魔法も」

 教授は本を閉じ、今度はタブレットで何事かを操作して私たちに向けた。映っているのは一人の少女。歳は私と同じくらいだろう。

「今回は現地の魔法少女と共に、失われたものについて調査してほしい。翻訳はテレパシーがあるから問題ない。コロッセオで現地の魔法少女と合流した後は、とりあえず指示に従って動くように。……こんなところかな。質問は?」

「ありませんの」

「私もです。聞くのは3度目ですから」

「それもそうだね。……ん、そろそろ出発したほうがいいかもね」

 教授はタブレットに時間を表示した。まだ余裕はあるけれど、那由他の前科を考えると確かに良い時間だ。本人もそれを理解しているのか、立ち上がっていそいそと準備を始める。

「忘れ物はないかい?」

「恐らく。あったら現地で買います。……毎回言ってますが、私たちが発った後の食事を適当にしないようにしてくださいね」

「毎回言うね」

「毎回ゴミ袋にカップ麺やらコンビニ弁当の残骸が入っているからです」

「前回は帰ってくる前にゴミ出しをしておこうと思ったんだけどね……」

「パパは料理できるんだから、もったいないですの」

「まあ……そうだね。善処するとしよう」

 これは今回も約束を守らないパターンだ。教授は魔法少女のことは気にかけてくれるけれど、反面自分自身に関してはあまり頓着しないフシがある。帰ってきてから私が栄養満点の料理を作るしかなさそうだ。

「ごめんね、同行できなくて。私も助手も立て込んでいるから……」

「構いませんよ。私たちは魔法少女です。それもベテランの」

「そうですの。月破砕前の常識には縛られませんの」

「本当に、若い子の新時代への適応能力はすごいね……」

 教授はしみじみと嘆息していた。老け込むにはまだ早い歳だろうに。

「準備できましたの!」

 那由他がワイン色のラップコートを着込みながら言った。私は念の為研究室を見回って、忘れ物がないか確認した。

「それじゃ、気をつけてね」

「いってきますの!」

「良い成果を期待していてください」

 私たちは教授に手を振って研究室を出た。エレベーター前のボタンを押すと、ちょうど4階に止まっていてすぐに扉が開いた。二人で乗り込んで1階のボタンを押す。扉が閉まると、二人きりの静寂。那由他が近付いてきて、私の手に指を絡ませてくる。私はその指を握り返した。

「いつパパに伝えますの?」

 不意に那由他が尋ねてきた。エレベーターが1階に到着し、扉が開く。エレベーターを待っていたらしい学生とすれ違い、学生証をかざしてゲートを抜け、那由他が入校許可証を返却するのを見届ける。建物の外に出ると、来た時と同じ冷たい風が肌を刺してくる。繋いだ手の外側が冷たい。

「……私の心の準備ができてから?」

「パパはきっと喜んでくれますの」

 那由他は唇を尖らせた。早く教授に気後れすることなく付き合いたいのだろう。

「どうだろう。私が那由他によく意地悪してるのも知ってるだろうし、こんな奴はけしからんって思ってるかも」

「それなら意地悪の頻度を減らしてくれてもいいんですの」

「難しい……」

「そんなにですの……?」

 那由他は唖然としているようだけど、それは本当に難しい。今後ずっとやめられないと思う。

 ……実際のところ、教授はもう私たちの関係に気付いている気がする。教授は人同士の関係に鈍い人じゃない。付き合っていることを伝えたところで、既に知っている以外の答えは返ってこないだろう。まだ伝えていないのは、単に私が恥ずかしがっているのと、万が一否定された時に怯えているだけ。

 すれ違う学生たちの視線を感じる。那由他を見ているのだろう。話していると子供っぽいけれど、遠目に見ている分にはかなり美人だ。ワイン色のラップコートを着た今の姿は、見慣れた私でも目を奪われる瞬間がある。那由他が注目されるのは嬉しい。……同時に、私の那由他をあまり見ないでほしい、と面倒なことを考えてしまいもする。

 駅の上りエスカレーターに乗る。那由他は手すりに掴まって、身体を半分こちらに向ける。

「ラビさん、注目されてましたの」

 那由他の表情はどこか複雑そうだった。何を言ってるんだろう。

「注目されてたのは那由他でしょ」

「違いますの。みんなラビさんの可愛さに見惚れてましたの……」

 ……なんだ。似たようなことを考えていたらしい。思わず笑ってしまった。怒ろうとした那由他のソウルジェムに、私のソウルジェムを当てる。

『私が慕うのは那由他だけ』

 目を見てテレパシーを伝える。那由他は瞬きして、頷いた。

『私もですの』


 私はずいぶん那由他一筋になってしまった。かつて「最期の時まで慕い続ける」と思ったときは、まさか私たちがこんなに長生きするなんて予想だにしていなかった。私は成人を迎えることもできずに死ぬのだろうとばかり思っていた。

 それが、私は今年成人を迎え、来年は那由他が同じ大学の後輩になる。ソウルジェム浄化装置の発明によって、以前より魔女化の脅威は小さくなった。魔法少女には寿命がないらしいし、数百年を生きる魔法少女もいるらしい。もしかしたら私もそうなるかもしれない。あまりにも遠い話で、何も予想はつかないけれど。

 ……だけど、少なくとも。まだしばらくは、那由他のことを慕い続けないといけないだろう。いきなり顔を寄せてきて、外でキスをしてくるような突拍子もない那由他の行動に、私の感情はめちゃくちゃにされっぱなしだから。

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