突破する表現と、受け止める側の知の連鎖 についての話。

(※本記事には価格が設定されていますが、無課金でも最後までお読みいただけます。)


自由大学で「DIYミュージック」という講義のキュレーターをつとめはじめてから、かれこれ2年の月日が経過した。

「DIYミュージック」はテクノロジーを利用したり、はたまた別の創意工夫も取り入れながら、音楽制作はまったく経験が無い人から、これまでクラシックをがっつりやってきた方、ロックをがっつりやってきた方まで、様々なタイプの人たちが自分だけの音を探していく講義だ。

毎期、10名前後の受講メンバーとともに教授のSawakoさんとさまざまなゲスト講師の方々をお招きした環境で、音・音楽にまつわる新しい表現を探り続けている。

受講してくれるメンバーはサラリーマンの人もいるし、高専生もいるし、一方ではイラストレーターだったり演劇をやっていたりフェスを作っていたり何らかのプロダクトのデザイナーだったりもする(職種はまったくこの限りではない。書ききれません)。年齢も10代から50代まで(特に上限は設けていません)。そんなわけでバックグラウンドは見事にバラバラ。先に述べたように、音楽経験も、この講座を受講する目的も実に、それぞれバラバラなのだ。そんなメンバーが5回の講義の最終日に行う最終発表に向けて作り出す音は、本当に個性に満ち溢れていて、人間ひとりひとりの個性や表現の無限の可能性に毎度打ちのめされ続けている。現在、11期までが終了し、6月末からは12期がスタート予定だ。

私はこの講義を通して「何かを越境するための表現」についてと、それを受け止めた側が何を示し返すか、ということをずっと、考え続けてきている。

というのも。この講義に参加してくれる人たちやゲストで来てくれる方々が作り出す「音楽」は、自分にとってまるで日記のように感じられることが多く、それまでにも散々好んで聴いていたはずの「音楽」というものが、何か全く新しい言語のようにも感じられるようになってきたからだ。また、音楽と様々な表現が複合的に掛け合わされることで、人はどんどん自由になり、個性を自分で肯定していけるようになるのだ、という様子も間近で見続けてきて、自分も新しい表現をもっと体得して自由になりたいよな、と思うようになってきた。

たとえばこの「DIYミュージック」にゲスト講師として来てくれたことのあるhenlyworkさんは、今では「chalkboy」としての顔も持ち、黒板に文字と絵が混ざり合ったチョークアートを仕掛ける第一人者として大人気。しかしじつは彼はもとは音楽家なのだ。音楽とチョークアートという異なる表現手段を持つ彼だが、私は彼が講義の際に持ってきてくれた、思考のスケッチを見て圧倒された。楽譜のような記号のようなイラストのような文字のような、彼の中にあるものが融合されてアウトプットされた表現がたくさんそこに描かれていたのだ。二足のわらじ、とかいくつのもの顔を持つ、ということではなく、このくらい自由に、何かを越え合い、自分の使える術を融合して新しいものを生み出せたならば、どれだけ生きて行く自信に繋がることだろうか、と。表現のジャンルなんてなんのその、という領域へと、自分はいつかたどり着けるんだろうか、といろいろ感慨深くなってしまった。


そもそも自分が求めてきた「表現」って何だったのだろう、と少し振り返ってみる。

高校生の頃から雑誌を読み漁り、広告表現にまつわる仕事に就きたいと代理店に就職。その後、出版社に転職して、会社員として10年ほどをマスコミ界隈で過ごした。

そして2年ほどはフリーランスで編集執筆企画業に携わってきたが、とにかくこのフリーで=自分の名前で生きるということが、とても難しく感じられた。つまり、個人として、インディペンデントな存在であることを自分でフラットに認める、ということ。会社名のもとで身元を保証されているわけではない自分を、自分で支えてやらないといけない。そういう体験自体が、よく考えたらまるで初めてだったのだ。

そのために、まずはたくさん記名の仕事をさせてもらった。本当に、自分で自分が何者であるか、私はまったくと言っていいほどわかっていなかったように思う。ただただ、周りの人が期待してくれるところに自分の得意分野があるはずと信じ、模索。そこを辿りながら、ありがたいことに人物インタビューや取材をたくさんさせてもらってきた。

文章を書くこと自体はそれこそ昔から嫌いではないが、自由で、自分のためだけに書くようなものは、たまにとても苦しく思うこともある。そういう感覚に絡めとられることなく、仕事の術としての品質保証を、会社のお膳立てがなくなった自分でも、ある程度のところまでできるようになりたかった。

インタビューとは、人から何かを引き出す力がとても必要とされる場であり、そのためにはこちらからも相応のものを渡していく必要のある現場でもあると思っている。この力については、この2年で随分と意識できるようになってきたものの、まあ、やっと序の口ってところだと思うが。(人生で目指したいのは誰がなんと言おうとタモリさんであるからして。)

また、インタビュー原稿や取材原稿はある意味どこかで自分を“いたこ的”な状態にもっていき、その上で作成することが多い。

でもそろそろ大人になってきたからか、35歳を過ぎてみたらば、いろいろな自分のこれまでのバックグラウンドにあるもの同士を掛け合わせて新しい視座を提案できるような価値共有のための企画をしていきたいものだという思いがとても強くなってきていた。

そんな矢先、これまでの自分はあまりにも「文章」だけに固執しようとしていたんだな、と客観的に見えるようになった、ということかもしれない。それは先の通り、「DIYミュージック」のキュレーターをしながら、さまざまな事象や思いの表現手段として音楽を用いることができる、という事実に触れたことが大きかったのだと思う。こんなに自由に音楽も使っていいのだったら、私が普段用いている「文章」という手法ももっともっと自由に使いたい、と思うようになったのだ。

あるいは文章を書くのだとしても新しい手法や身体的な感覚を、もっと織り込みたいとひしひしと思うようになってきていた。

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そんなとき、たまたま大阪のブックフェアで川崎昌平さんの「はじめての批評 勇気を出して主張するための文章術」(フィルムアート社刊・2016年)という一冊に出会った。

それまでの自分は、批評を書いてみようとは思えなかった。まして、大好きな音楽作品に対して批評を行うことはとても恐ろしいと感じていたし(誤解を恐れずに書くならば、音楽を言葉で規定しようとすること自体が無粋にすら感じられていたのだ。今となってはその呪縛はすっかり解かれたが。)、一体言葉でどこまで何をできるのだろうと悶々としていた。

けれども、この「はじめての批評 勇気を出して主張するための文章術」は表紙からしてとてもシンプルで、しかも帯にもわかりやすく、『批評=「価値を伝える」 伝えたいことをちゃんと書けるようになろう』と書かれているのみ。過剰さが無く、共感できそうな気配。まさにこれが多分自分の求めていた一冊だな、と思い、迷わず購入した。読み進める前、序章の時点で「価値を相手に伝えるための文章」がいかに多様性の土壌を担保するかがよくわかり、それだけで私は「ああ、自分で自分を規定せずに、自由に書いてみよう。それだけで、社会に貢献できるはずなんだ」となぜか安心することができたのだ。

ということで、これまでどうしてもできなかった何らかを主張する文章を書くことへの恐怖を飛び越えるためにも書こう、と思えたのが、先のnote「菅田ちゃんという音楽的な役者の話。だった。

じつは、5月の後半だけでも、2度も仕事の打ち合わせで「菅田将暉」という名前が挙がっていて、それを聞くたび私はもはや、恐れ慄いてすらいた。なぜなら、たとえばそこでよき取材の機会が今あったとしても、だ?今の自分はあまりにも通常の取材対象よりもモヤっとした、かつ過剰な、不思議な思いをこの相手(菅田将暉)に対して抱えてしまっているということはよくわかっており、だめだこんなことではよい仕事にできない、という哀しみにすら近い気持ちがあった。(つまりは、ファンの度合いが強くなりすぎることで批評的な目が失われてしまって客観的に何かを書けなくなる、ということ。)

だからこそ、この役者の存在について自分が感じていることは、早いうちに言葉にして何らかの形で一度出してみるしかない、と。そうでないと実際の仕事に支障が出かねない。けれども、恐らく言葉にしてみれば、その執着にも似たよく理解しえない感情はきっと手放すことができるはずなんだ、とも思っていた。

そうしているうちに、「よし、今なら書ける」という勇気のきっかけをくれたのがandymoriと志村正彦の音楽だった。彼らの音楽に背中を押されるような形で、あの投稿をばばーーっと書き、今の自分が、菅田将暉という表現者に感じているものを、言葉にして出してみた。

そんな風にして、自分が非常に個人的なものとして書いたテキストだったが、公開してみればほどなく、思いもよらぬところでインターネット上にいる菅田将暉さんのファンの方へと急速に届き「まさにこれが自分の言いたかったことでした」というようなメッセージまでたくさんいただきながら共感を得るに至った。自分としては、これは正直、驚き以外の何物でもなかった。何故なら、このnoteはほとんど私の仕事仲間や元からの友人しか読むはずがないと思っていたし、そもそもあの投稿も共感を得ようと書いたものですらなかったからだ。(noteは始めてみようと思っていたけれど、それも、いつか本を作るときのためにどういった方向性でやるのがよいかをひとつずつの記事で試行錯誤できればいいなと思っていたような感じだった。)

それにしてもこの広がり、とてもインターネット的だった。久しぶりにインターネットの楽しさを思い出させてもらった出来事でもあった。

かつて私は10年以上前によくブログを書いていて、聴いた音楽のこと見たライブのこと、旅のことなど日記として書き残していた。当時あったSNSといえばGREEとmixiぐらいで、そこ経由で共通の音楽を聴いている人などが何度も見に来てくれたり、あるいは検索でたどり着いてくれたりして、そこから様々なつながりが生まれたりもした。が、ツイッター時代の広がり方はそれとは比にならないようなスピード感だな、と初めて実感した。

何かのメディアに書いたものであれば、そのメディアに関わる人たちとともにひとつの文章が多くの人のもとへと届いていく経過を知りながら何かを共有できる。しかし今回はなんといっても、意を決して遂に始めてみた自分だけのnoteで、のっけからこんなに反応をいただいてしまって、自分がまったく予想していない展開だったので、正直、最初は慌てふためいた。(菅田くんのファンの人に少しでも嫌な思いをさせてしまったらどうしよう…!という気持ちでいっぱいだったのだ。)

つまるところ、言語化してみて、正解だった。

一方、あれが「批評」であったかといえばそうでもないだろうし、じゃああれって何なんだ、むしろ批評ってどういう形式ならば批評と認められるのか。その辺りは、まだ全くわからない。

ただ、自分が勇気をもって何かを書きつけることで、僅かばかりの"価値の原型”とでもいうようなものが形成され、人に伝わり、それを受けた人がまたそこに何かを返してくれるという反応によって価値が醸成されていく、ということ。その入り口のようなものがほんの少しだけ、見えたような気は、した。

伝わるスピードが、今回の場合は異様に早かったが。これはもう、書いた対象の人気っぷりや、ちょうどファンの人たちと同じスリルを味わった衝動で私が書いたことにより、ここまで受け入れてもらうことがたまたまできたということなんだろう。

…なんだかこうやって分析してしまうと、面白味が少しばかり欠けてしまうのかもしれない、とも思うが、一方、私としては本当にこの本に出会って素直に書いてみて最初の1本目を多くの人に読んでもらえたことで、言葉にしきれないほどたくさんの感覚をいただいたように思う。つまり、これこそが批評がもたらしてくれる「価値」なのだろうと思えたからこそ、ここにも書いておくべきだな、と今これを書いてみている。

出版社を出て、フリーランスになってからのここまで2年はインタビュー、取材ものがほとんどだったがゆえに、こうしたひとり語りのテキストはどうやって書くべきものなのだろうと不安で仕方なかった。けれども、それを意外なほどに受け入れていただけて、しかも自分の文章を通して新しく人と出会えるという純粋な喜びを久しぶりに味わったようにも思う。(仕事としてではなくても、ライフワークとしての執筆はやっぱりやめたくないな、と思えた。)

でもその時にとても重要なのは、その文章が五感を研ぎ澄ました状態で書かれたものであるか、ということのようだ。

何人かの、旧知の友人があのテキストを読んで、文章中での感情や感触の働き方、熱量の織り込み方について感想を寄せてくれた。衝動や感覚、五感を研ぎ澄ませて感じ取っていると評価してくれたりもした。

なかでも「いつもエミリのロックなフィルターを通して出てきた言葉が好きで」と言ってくれた友人がいたが、これがもしも音楽をなぞらえるような言葉、という挑戦が少しでもできていたことを意味しているのならば、こんなに嬉しいことはないなとも思う。(ちなみに私はよく「ロックですね」と言われるが、その雰囲気、はっきりとはわかっていない。)

何か表現へと共鳴した時に、それを自分なりにその共鳴をまた表現すること。そしてその共鳴の表現を受け取った人がまたその共鳴・共振を相手、あるいは次の人へと伝えていくこと。その繰り返しで表現はどんどん越境していけるし、自分の内側から殻を打ち破る力こそが、表現そのものなんだろう、と2年間の「DIYミュージック」を通して理解してきた。それを私は、自分の領分である執筆でも試してみようとしている。

表現は相手との境目も越えるし、そもそもは既存の己を越えることと直結している。

そういう意味では、なんでnoteの最初の1本から菅田くんの話にしたのと聞かれたりもしたが、たぶん菅田将暉が表現の境界を越えていく様に駆られ、いろんな意味で今の自分の気持ちがすごく共鳴したから、っていうことなんだろう。(かっこよくこじつけすぎですか。そうだよね)

…そんなわけで、少しだけ新しい手法を得させてもらったような形で、私は文章表現の面白さを味わうことに戻ってこれたようにも思う。今は文章に対して「もう少しだけ、ともに生きさせてもらってもよいでしょうか」という気持ちだし、それを使ってもっと新しい状況を作り出していきたいとも強く思う。

身体表現のひとつとしての執筆って、どんな可能性があるんだろうか、とか、思うところはいろいろある。考え始めたらいろいろキリはない。

なんとなくそんなことを考えながら、いろいろ実践してみながら、このnoteを続けていければいいなと思っています。


自由大学「DIYミュージック」

https://freedom-univ.com/lecture/diy_music.html/

6月末からスタートする次期にも、ジャンルを越えて表現をしつづける素敵なおふたりのゲスト講師が決定しています。


はじめての批評 勇気を出して主張するための文章術」川崎昌平(フィルムアート社)

(※本記事には価格が設定されていますが、無課金で最後までお読みいただけます。内容はこちらで終了です。お読みいただき、ありがとうございました!)

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