「半分、青い。」というロールシャッハテストの向こう側に「安易に同情させない、美談にしない」という製作陣の覚悟を見た。

「半分、青い。」が最終回を迎えた。

星野源の「アイデア」が毎朝流れる半年間にどれだけ救われたことだろうか。永野芽郁ちゃん演じる鈴愛がポロポロと切実感溢れる涙を流すたびにともに涙し、自分まで日々のストレス成分が流されたような気になって「よーーし今日もがんばるぜえ!」と思えた美しき日々が、終わってしまったのだ。素晴らしき哉、大人のための少女漫画(大人の女性向け漫画、では決してない)。

「半分、青い。」は壮絶なロールシャッハテストを、毎度毎度日本の朝のお茶の間から派生した小さなSNSというコミュニティの片隅に突きつけ続けた。それゆえ、絶賛と大異論反論バッシング大会を同時に生み出し続けるというとんでもないことを成し遂げたドラマでもあった。

正直、途中まではタグでもって他の方の感想ツイートを追うということなどせず観ていた。が、よりドラマの話が急展開を見せるようになり前のめりに見てないとその重力加速度に振り飛ばされていまいそうだと覚悟した頃になって、なにやら「こんなの朝ドラとして失格だ!!」という評判を知り、驚愕したのだった。

※そのあたりは是非、こちらのかんそうさんブログを参照くださいませ。


同じ物語を観ているはずなのに「これは何に見えますか?」と聞かれた時の回答がここまではっきりと違うものになるのか、と。そんなロールシャッハテスト状態に、もはや「え、そんなはずは…?!」なんて目をこするというだけでなく、むしろ目から鱗が落ちまくるようなアハ体験だった。そこからもうさらに目が離せなくなってしまって、結局録画までするようになり、5月半ばから最終回までを完走した。個人的には網羅度でいっても、あの「あまちゃん」を超えた、史上最大しっかり観た朝ドラになった。

確かに、「半分、青い。」ではこれまでの多くの朝ドラが踏襲してきたあるべき姿のようなものからは大きくはずれ、まあ主人公・鈴愛がなかなか“わかりやすい偉業”を成し遂げないし、相手役の男性とも結ばれる気配は薄くなるばかり。岐阜は恵那から上京し、漫画家目指しているはずだったが辞めることとなり、最初はその事実を家族に言えぬまま100円ショップで働き始めたかと思えば映画監督志望の旦那を見つけ、子どもが誕生、そこはなんといっても子は鎹、夫も家族優先でクリエイティブの見習い仕事は手放ししばらくは、狭いながらも明るい我が家……かと思いきや今度はやっぱり夫が夢を捨てきれず離婚、シングルマザーに。彼女は、食堂を営む岐阜の実家へ帰り、そこから祖父がつくるご当地銘品・五平餅を軸としたカフェを始める。その時に店のシンボルとして彼女が発明したキャラクターがやがて東京の企画会社に見出され……と、まあこう書くとわけわからない感じはあったのか……はははは。でもロストジェネレーションにとってこの説明しがたいほどの切実さ、今でいう“キャリアパス”なんてかっこいい言葉ですら括れない経歴に、圧倒的なリアリティを感じたことは確かなんじゃないかと思う。

ものづくり、作品の制作にはアイデアが必要だ。でもそのアイデアって結局、自分自身のバックグラウンドとして、ふれた情報や感性にひっかかった破片たちがたまり、何かの入力があった際にウワッと結実するものでしかなく、傍目に見ればブラックボックス。つまり、ロールシャッハテストの一方から見るとただただ思いつきだけで動いているように見えるものだから、正統な朝の連続テレビ小説ファンからすると「なんでこんな出来の悪い子をずっと見せつけられなきゃならんのだ」「なんでこんな子がヒロインとして描かれるのか?魅力もわからないし、登場人物みんなに支えられている意味がわからない」となる。(きっと、律の大学時代の恋人・清もそう思っていたんじゃないかなと思うし。笑)

また、たとえば「笑わないヒロインだった」「明るい子ではなかったのかも」と最終回後に書き込んでいる方の感想も見かけ、「へへえ〜〜」となった。正直、自分にはそんなこと微塵も感じ取れなかったからだ。でも確かに思い返してみると、すずめはいつも「どっち?どっちどっち?」(彼女の口癖だ)と言いながら、考えている風(彼女なりに 笑)なことが多かったかもしれない。そういう真剣な表情がむしろとても豊かで、私はものすごく魅力的に感じていたのだけれど……。またしても見え方?捉え方?がここまで違うのか、と。まあそんなわけで「まあ、今の時代、女の子はニコニコ笑ってないと魅力的ではない、なんてこともないでしょうしね……」などとフェミ感ある皮肉を言いたくなったりもした。

でもまあ、ロスジェネという要素に加え、言ってしまえばバンドマンみたいな、どこか夢見がちな人だけが放ち続けられる圧倒的なロマンが、鈴愛にはあったのだと思う。鈴愛はいつも、“何かしらやろう”としていた。漫画家になるという夢が破れた時点で、一度は、“何者かには、なれなかった”。けど、どんな苦境だろうとアイデアがまた出た際には、今からだって、まだ何をやったっていいんじゃないか、と主人公自身も実家のみんなもとても大らかで能天気に楽しんでいて、そういうところが本当に観ていて幸せな気持ちになる作品だった。実現できるかどうかもわからない夢や希望を持ち続ける、なんてことは、自分で自分を認めてやることができなければ(また欲を言えば、絶対的に受け入れてくれる誰かがいるという安心感がなければ)できないことだし、それを説教くさくなく、つまりお涙頂戴でも情けを誘うでもなく、さも閃き一発でやっているような肩の力の抜けた(同時に勢い一発だけのような部分もある 笑)主人公は、そういうインスピレーション優先型の生き方に好意的、あるいはそういうアイデアに憧れを持つ、想像とクリエイティブの力を信じている視聴者にとっては、本当に応援したくなる要素で一杯の主人公だった。

90年代初頭までのバブル期、少女漫画雑誌が250万部とか売れていた時代が過ぎ、突然100円ショップで時給800円。学歴は特になく、耳に持つ障害をどこかでやはり気にし続けてはいたのだろう(いや、そうじゃなかったら100円ショップ大納言じゃなくてももう少し何か職業あったかもしれないよな、とか。でも結果、夫となる人とあの店で出会えたのだからよかったよな、離婚するけど 笑)。それでも、彼女の行動のほとんどは、同情を誘う形では起こされていなかった。夢をあきらめきれていなかったり、夢のためにここまでなんとか生き残った人々はそういう姿勢を誇らしく感じることだろうし、逆にこれまでの朝ドラファン層にとっては、主人公への同情を寄せる余地・余白がなさすぎた、のかもしれない。しかも「ポジティヴすぎる」というよりは「もう全然、主人公が何考えているのかわからない。まったく共感できない」と見えているようだった。

ただ、広義での“ものつくるひと(=クリエイター)”の世界なんて、同情されたらおしまいであることもまた確かだ。「なんでそんなに苦労してまで続けようとするのか」を理解されることはなかなかないし(そろそろちゃんと就職したら、とか結婚して落ち着いたら?とか言われるのが関の山だろう)、したたかに、どんなに大変な時だって、自分は夢でおなかを膨らませて生きていられるんだぜ、くらい思い込むことができなきゃ、到底続けることはできない。そうやって、いろんな方法を探りつつもなんとか生き残って、自分で自分のなかの思いや葛藤と切に向き合いながら現在も働くような人には、本当に共感できるところだらけの物語だったことだろう。

つまり、主人公がかわいそうで悲惨な状況なのに、本人はそれをものともしていなさそう(「おい、鈴愛、ちょっとは反省しろよ」と常に突っ込みたくなる人は多々いたはずだ)、というところにもまたロールシャッハテスト的なる何かがあったのかな、と思う。

つまり「あの子はかわいそうな人だ」というレッテルを貼りたい側の認知を歪ませることに、鈴愛は成功し続けた。それがまた無意識だからいい。というか、彼女は変に自分と合わないところに執着し続けることがなく(だからむしろ執着する側から見たら、羨ましくもあるんだろうな……しかしその方々は羨ましいという言い方はしない。「なんでこの人はひとつのことをがんばらないのだろう。初志貫徹したほうがまだマシなのでは……」と素直に疑問を持つだろう)ある意味、彼女の人生の乗りこなしには、相当よくいえばこれからの時代のポートフォリオ・ワーカー的なる何かの流れがうっすら見えている気すらするし、でも切実感とサバイバル方法という観点からシンプルに見ても、最高にリアルで、痛快だったのだ。

なんというか、衝動性が高く回り道も楽しまざるをえない人生の歩み方をしてきた人にはこの作品は人生の捉え方の多様性を全肯定してくれるという意味でも面白くて仕方なかっただろうし、極めて常識的にあるべき姿を定めた人生を目標とし、誰からも頼まれなくてもそして例えそれがどんな内容であっても文句だってしっかり言いながらも『朝の連続テレビ小説』という伝統芸を見届けることをしてきた人々にとっては、その由緒正しき場がかき乱され続けるという阿鼻叫喚の事態だった、ということなのだろうな。

誰かに愛されるものは同時に、別の誰かからはそれと同じかそれ以上のエネルギーでもってとても憎まれる可能性が高い。そういうことが非常に顕著だったのだろう。でも私のように、「朝ドラは『あまちゃん』くらいしかほぼ完走できていない、どうしても気づくと離脱しがちだった」みたいな人間がこんなにハマれる仕掛けが朝ドラという世界で用意されているだなんて、思いもしなかった。だからとても新鮮で、さらに引き込まれた。NHKさんもここまでやるということは、新規視聴者獲得のために振り切ってみたというのも多分にあるのだろうし、そういう意味では本当に、大成功だったのでしょうね。

つまり、半分の人に絶賛されもう半分が納得できない、という程度は最初から了承済みだったことだろう。むしろそれくらいのぶっ込みをしたかったんだろう。主題歌である「アイデア」のMVで、紅白幕が一瞬にして鯨幕になる演出にもあるように、光の種類、当て方次第で世界に伝わるものは、逆転するのだ

だからといって、もちろん世界はこんなロールシャッハテストのような両極端なふたつの世界に引き裂かれているわけではない、と信じている。

どちらかというと極端なもの同士がお互いを説得(というか論破?いや単なる罵り合いか……苦笑)しようとして引き裂いていくから、中間的な人たちは疲弊してしまう。すぐどっち派とか決めつけないでくれよ、と。そういうことも含め、SNS上では意見が激化していて、最後のほうはもう罵り合いみたいなことも細かいところでは多々起きていて残念でもあった。

自分含め、物言いたい人間がワンワンと書いていても、そんなこととは全然関係なく、SNSなんかで意見を追ったりなんかせず、テレビでの放送を観て、純粋に「おもしろいなあ」と受け止めている人たちがほとんどだろうし、正直「賛否両論が巻き起こっていた」なんて大げさな枕詞で盛大に煽り続けるネットニュースに乗っかり続ける我らSNS大好きネット民たちよ……という自戒を込めて。

ちなみに、こちらのこべにさんのブログでのエントリ、とってもわかるなあということが多かったので、リンクさせていただきます。

ちなみに、何かひとつの物事について、真逆の受け取り方をしている人と、無理にわかりあおうとする必要など全くない。というか、逆もまた真なり、ということで、むしろ真逆だというのは一周回ってほぼ同じ、ということと同義だったりする。

昨今のインターネットから派生する極端な分断とかムラ化、共通して言えることなのかもしれないけれども。実際には所詮そんなの全て同じ穴の狢というか、本当、甚だしきタコツボである。狭い狭いところでの啀み合い、重箱の隅をつつき揚げ足をとりあうだけの事態は疲弊する。

 内輪だけの罵り合いの言葉、脊髄反射の言葉ばかり世に放っては、ただの内ゲバがどんどん激化するのみ。本当は話をもっとしたい相手と、いつまでたっても話すきっかけがつかめない、と思うのだった。

さて、そんなわけでここまで書いてきたのはロールシャッハテストで同じものを見ているけれど認知の差でこんなにも大きい差が出るんですねえ、という感想だったが。

■フィクションの中で触れられる東日本大震災について

これも捉え方の話だけれど、どうしてもひとつ私個人として書きたかったのは、この話の最終週に、東日本大震災が組み込まれていたことだった。といっても、これもめちゃくちゃ最後の最後に批判と肯定とでSNS論争が起きていたことだったが。私は最後が2011年3月11日から7月くらいまでの描写で締めくくられていることにとても救われる思いがすると同時に、辛さも感じた。

けれどももちろんこれは同時に「震災を軽く扱いすぎている」「お涙頂戴のキラキラアイテムとして震災描写が疲れたことに憤りを感じる」「医療従事者として現実世界ならばありえない決断だろう」といった意見も大量に #半分青い のタグをつけて語られていて、えもいわれぬ辛さが募ったのだった。

いつまでそうやって腫れ物に触れないようにするかの如く、「これを見て傷つく人がいる」という理由で、東日本大震災のことを禁忌事項のように伏せるのだろうか、と。既に7年以上が経過した今こそ、そろそろこの話をフィクションの中で語り出さなかったとして、逆にこの先いつだったら物語の中でとらえ始めるのに適しているというのだろう。(ちなみに私はいま30代後半だが、原発事故の話も含めて考えると、およそ自分が生きているうちに東日本大震災の“復興”が完了するなんてことは考えられないと思っている。私たちの世代は、一生このテーマと向き合い続けることになるのだ。)

とにかくその大いなるチャレンジへ、雑だなんだと散々批判されることも覚悟の上で斬り込んでくれたことにとても救われる思いがした。もちろん家族を亡くし今も悲しみで塞ぐ人ももちろんたくさんいらっしゃるけれど、その一方で、前を向き、もっと他の地からも東北の今に関心を持ってもらって進んでいきたいと考えている人たちの、気持ちの昇華に繋がるとも信じたかった。

というのも、ちょうど、最終回にかかる前の週のラスト、土曜の朝に、主人公たちがあの地震を経験するシーンを観てから、ちょうど自分は用事で東京から南相馬へ行ったのだった。南相馬では震災以降に出会った仲間たちと半年ぶりくらいに会い、月曜朝にかけては双葉郡の浪江町に泊まった。宿で起きて月曜にテレビをつけたら、ドラマの中で、主人公の親友であり宮城の海辺の病院で看護師として働くユーコが、安否不明になっていた。その日私は、浪江で海の方へ行きつつ、津波で亡くなった方々の慰霊碑へも行ったら、「お彼岸なので、7年経ってやっと、友人の名前が彫られているはずの碑を初めて見に来た」というおじさんに会ったりした。そのおじさんはいつもその漁港の友人から鮭を買っていたそうだ。

最終話に向かっていくなかでのこの日のドラマ展開は、「ああこれが岩手、宮城、福島の沿岸部で繰り返し皆が経験した現実だよな」とあらためて思ったし、平成総括クロニクルでもあるこの作品において、30年のうちの7年以上を占める震災という出来事はどうしたって扱わざるをえなかっただろうと思う。

(写真は、9月24日に浪江町の大平山霊園から見た請戸の海岸。右側に小さく見える請戸小学校の子達がこの大平山まで走って来てギリギリ津波を逃れたのだという高台にできたこの墓地には、津波によりこの辺りで流されてしまったお墓がまとめて入り、整備されています)

被災者の気持ちを配慮するのはもちろん大事。しかし同時に、こうやってあの日のことを話してもいい土壌が必要なフェーズに、とっくに差し掛かってるはずだ。けれども、腫れ物としてしまったことでトラウマが歪になってしまっていやしないか?だからなかなか話しだせない。そんなことしている間に、被災地から距離のある地では、明らかに震災のことも原発事故のことも風化している。でも、彼の地では状況が刻一刻と変わりながら(あるいは帰還困難区域では人が住まぬまま)今もたくさんの解決すべきことと向き合う人たちがいる。

“重く扱う”って何だろ。とか。

そんなこと考え始めたらきりが無いわけだけども、少なくとも私はこの半青での表現は、最近のなかではものすごく真摯かつ、詩性をもって、もはやステレオタイプとなった“かわいそうな被災者の苦しみ”としてでなく、津波で突然2万人近くの命が奪われたことへの無情さや受け止めきれないほどの喪失感、それを受け入れようとする家族というものを象徴として、描いていたものだったと感じた。しかも重すぎないのに、全く明るくなんかない、いうところが重要だったと思う。こんな一歩の踏み込み方をしてくれたことを、心から讃えたいと思った。

ドラマの中での震災描写としてもちろん、2013年の朝ドラ「あまちゃん」を引き合いに出す人も多くいるだろうが、あの時から早5年。既に状況はもう随分と変わっているわけで、フィクションの中での震災描写のあり方のアップデートは明らかに必要だと感じる。

それにしても、つまりだ。こんなの大抵、分断世界のどちらか側でしか語られないのに(つまり震災復興関連は、もう今から新しく話し始めようとする人なんてあまりいない。論壇のメンツは決まっているだろうし)、こういう題材を朝の連続テレビ小説という枠にぶちこんできて賛否両論喧々諤々の語らいの場を最後の最後に投げて終わっていったNHKと北川さんの底力は圧巻としかいいようがなかったと思う。

たとえば「ユーコがあの状況下でも生還してくれた!」という奇跡物語を描くことでこの2010年代の世知辛さを、それこそ美化した神話にさせてはならないんだ、という覚悟を感じたし、あの2011年でドラマ本編を終わらせておいてくれたことは最大の救いだったのかも、とすら思った。

なぜならあの震災から生まれた問いは今も増え続けていて、すっきりとらえきったような気になって、気持ちよく終えている場合じゃないことばかりだからだ。なのにあの後の日々は、震災関連に関わった人とそうでない人でまたどんどん分断していっている(決して、対立しているという意味ではない)ように感じるし、その分断のシビアさを描けないのなら、それこそただの“震災美談”に過ぎなくなってしまうからだ。

人間は、美談を消費するのには本当に長けているから。その真逆で、一部の人に問いの解答を押し付けることなく、多くの人にできるだけモヤモヤが生まれるように仕掛けてくれたのが今回のドラマだった、と私は捉えた。

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ちなみに「半分、青い。」支持層のなかではどんなスピンオフがいいかなあという予想もたくさんツイートであがっていて私も楽しく読ませていただいているけども、私はあのそよ風ファン、もといプロダクト名「マザー」が、高台移転しなんとか復活したユーコの勤め先だった病院に導入される、あの日から6〜7年後の設定をまずは見てみたい、という気持ちだ。

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どうしたって我々人間は、自分と他人の見ているものが同じであったらいいなと期待しがちだし、共感しあえるひとと一緒にいたい。当然だ。そして、誰かに自分の思ったことを聞いてもらいたい。受け入れてもらいたい。でもそのために大事なのは、好き勝手に主張を叫ぶんじゃなくて、相手への伝え方をもっともっともっと、考えることなんだろうな、と。

それをより幅広く可能にするのがフィクションやファンタジーの持つ力だろうと強く思った。特に今回、ユーコが津波が来る前の状況下で家族や親友へ向けて残した音声メッセージ、というモチーフには、最大限のファンタジーが込められていたと思う。

そして受け止める側にも、その意見や創作物をまずはそのままの形で受け止めるという態度は必須だ。あなたと意見は違えど、あなたがそれを言う権利を守る、という態度。それに尽きる。そうでないと、きっと“震災の当事者とは一体誰なんだ問題”そして“当事者以外はもう震災のことに口出すな的態度”を免れず、結局、現状以上に震災にまつわる思想や文学が紡がれる機会が得られなくなりかねない。そんな危機感が、私の中にはあった。

今回の「半分、青い。」にはシンプルなテーマとして、朝ドラをタコツボ化させないためにはどのような新しいストーリーが求められているか、というのがあったのではないかと勝手に思っている。ゆえ、いろいろな価値観が共存可能な物語をつくり、安易に分断させない仕掛けがたくさん込められていたように感じる。そしてそれによって、たとえばネットという村社会での盛り上がりも激化するだろうけど、社会の中で見たらごくごく一部であるということも織り込み済みな上で、“すべて越えて届け”(by星野源 )という願いが、この「半分、青い。」には強く込められたなあとあらためて、思う。

ものすごい度量で作られていた物語だったゆえ、メタ的な話は考えれば考えるほど尽きないが、今日はひとまず、こんなところにしておきます。

ともあれ、半年間、おつかれさまでした!!!


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「半分、青い。」というロールシャッハテストの向こう側に「安易に同情させない、美談にしない」という製作陣の覚悟を見た。

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