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菅田ちゃんという音楽的な役者の話。


ここ1年ほど、菅田将暉が気になってしかたない。

au三太郎シリーズの「鬼ちゃん」でお茶の間に進出しはじめたはずで、きっとauの斉藤由貴さんのような気持ちで「菅田ちゃん」を眺めている人は多いことと思う。

ものすごく久しぶりに、それこそ私的には、妻夫木聡の登場以来に「うわ、なんかとんでもない俳優さんが出てきてしまった…」と2016年の初頭からどんどん気になり始めてしまった。「ああ、この役者は好感度・親しみとスリルを共存させ、それらを見る者に矢継ぎ早に与えながら今後すごい勢いで躍進していくのだろうな」ということを感じさせてくれる存在だった。男性も女性も、みんなが「なんだかカッコイイなあ」と感心せずにはいられないんだけど「しかもいい奴なんだよなあ」と会ったこともないうちから、なぜか親しい友達のような気分すら与えてくれる、あっけらかんとした性格のよさと、ものづくりへの痛快なまでのこだわりとセンス、そして学びへの謙虚さを持ち合わせた若き役者だ。

個人的には、映画「ピンクとグレー」で発揮していたあまりの存在感に薄ら恐ろしさを感じて以来、魅了され続けている。物語の輪郭をはっきりと縁取りながらも柔らかくそこに存在し、その場の空気を変幻自在に操っている菅田将暉の姿は見ていて実に飽きることがない。

これがまあ、単なる恋のような気持ちなのかと思いきや、どうにもそういうわけでもなさそうで。単に「応援します!」ということでなく(もちろんそれもあるんだが)何か駆り立てられるのだ、菅田将暉。一体全体、何にこんなにインスパイアされるのか、ということを、彼の出演作品やバラエティなど見るたびにぼんやり考えさせられていた。顔の造形が漫画みたい(に美しい)、というのはあるだろうが(横顔が鋭くてとてもいいですよね)、その恵まれた容姿にあまんじることなく彼は、見る者の何に訴えかけ、何を揺さぶっているのか、ということがとても不思議で仕方ないのだった。

かつて自分も中学生くらいの頃に少しは好きだったアイドルに対して持っていたような恋する感覚・つまり遠くから眺めていて一挙手一投足が気になる、みたいなことはもはやまったく無いわけだが(残念ながら職業柄もあってか、イケメンには「本当にカッコイイですね」と言えてしまうし、割と誰とでも話を恥ずかしがらずにできてしまう)、菅田将暉の出ている作品ということであれば、観ておきたくなる。そういう存在だ。ちなみにファッショングラビアなども、服を着こなす力量とあいまって表情が豊か。毎度、スチールでの表現力にも圧倒されている。

おそらく、若者にしては、ナルティシズムの無さ、つまり自意識が珍しいほどに削ぎ落とされているタイプの人なのだ。まあおそらく菅田将暉にとって、イケメンだなんだと騒がれるのは高校時代くらいまでで既に飽和状態なのだろう。それと同時に、持って生まれた美しさだけで生き残れるほど、現実の世界は甘くないこともきっとよく味わい、知っているのだろう。

また、異様なまでに自らをフラットに戻せる身体能力の高さと、ものづくりへの貪欲さ。「自分」が「役」を上回ることがない。つまり何をやっても“菅田将暉”になってしまうことはなく、むしろカメレオン的と言われる。普通だったら、一体素顔の菅田将暉はどこにいるのかとみんなが探りたくもなるだろう。しかしこれは私個人の意見かもしれないが、彼にはそういうアイドル性がほとんど感じられないのが面白い。そして、さらにこれはまったくの憶測だが、おそらく、役でいないときの彼は本名の「菅生大将」として生きているのではないかと思ったりもする。つまり彼自身の人生のなかで“菅田将暉を演じている”時間が、とても少なそうに見えるのだ。

そんな彼が、歌手デビューし、ミュージックステーションに出てテレビで歌を初披露するというではないか。

そもそも「え、本当に菅田将暉、歌でもデビューしてしまうの!」という戸惑いを感じたのが今年4月くらいのことだっただろうか。「だってあれって、auの"鬼ちゃん”がちょっとだけ人間界に降りてきて、がんばる人間(=サッカー日本代表)のためにいい歌をうたって、三太郎も熱くサッカー応援するよ!っていう設定だったんじゃないの?!」というこちらの戸惑いも甚だしかった。

とはいえ。そもそも私が菅田将暉を見て「やっぱりこの人ただものではないな」と魅了されてしまったのは、歌う姿がきっかけだったことも確かだった。吉田拓郎の「人生を語らず」を弾き語る菅田将暉。えええ!なんだこの人、歌、めっちゃいいな、とびっくりした。たぶん、音楽のセンス溢れてる人だなあと思っていたらば、その後もテレビドラマで相手役の藤原さくらちゃんの歌をなんとあの福山雅治先生バックで歌っていたり、番宣でくるりとユーミン「シャツを洗えば」のカラオケを披露したり、映画「何者」でもバンドやってる大学生を演じたり、グリーンの秘話を追った「キセキ」でもグリーンボーイズとして歌声を披露していた。(ファンタのCMではPUMPEEに指導を受けながらラップも披露していたっけ、というのもある。)きっとこの人は音楽を奏でることに対する興味やシンパシーのある人なんだろう、とは思っていた。

そういう結構歌の上手い俳優が、歌でもデビューする みたいなことはたまにあるだろう。けども、菅田将暉の映画出演本数(昨年だけで9本とか?今年も毎月のように映画が公開になっている)を考えたら「わざわざこのタイミングでさらに歌まで出さんでも!」と突っ込みたくもなるほどだ。

さて、そんなこんなで6月2日に放映されるというミュージックステーションでの菅田将暉はやはり観ておきたかった。当日は1時間の放送の大トリで、かつバンドをしたがえて歌うというセットだった。歌が始まる前からかなり緊張している様子で、始まってみれば非常に高音が出にくそう。イヤモニで音が取れていない箇所も見受けられる。歌い終わった後は、明らかに満足できるものではなかったなと思っているであろう本人の表情。終了してから「失礼しました」とかつぶやいていたのも印象的だった。逆に、こんなに満足していなさそうなの見せちゃってすごいな!とか思ってしまった。(確か昨年の春先に見た、ダウンタウンへの憧れを認めた手紙を本人たちの目の前で読み上げて号泣していたときの菅田将暉を思い出した。)この人、なかなか自分を取り繕うことできないんだろうな、という素直なさまに、彼のアイドル性の無さをまた痛感し、同時にアーティストとしてのポテンシャルの高さを深く感じるようなMステの放送だった。

この日、ミュージシャンというものがいかに「自分」を曝け出して表現をしているものなのかを、おそらく彼は、一層身にしみて理解したことだろう。

その翌日、立ち寄った書店で何気なく「BRUTUS」をめくっていたらば、ここにも菅田将暉がいた。ほんっとにどこにでも出ているな、と思うが、まあ私が気にしているから目に入ってきてしまう、というのも大いにあるだろう。(はははすみません。やっぱり恋か。)

そのページによれば、彼にとっては吉田拓郎、andymori、忘れらんねえよ、フジファブリックなどが影響を受けた音楽家たちだという。なるほど。すごいな。こんなに感情を作品に反映させているタイプの作家たちが好きなのか(そして私もとても尊敬してやまない音楽家たちだから、共感できてとても嬉しい)。となると、その音楽家たちへのリスペクトと、突然自分がその世界へと投げ込まれてしまうことの恐ろしさったらまあ本当に計り知れないものだったろうな、と、またあらためて前日のミュージックステーションを思い出し、こちらが身震いしてしまったのだった。

あのようなとことん不安定な状態を、ミュージックステーションという今では貴重な存在となった国民的音楽番組、しかも生放送の舞台で曝け出したことは、ある意味非常に表現者として実直な姿だったのかもしれない。

彼はあの日、「ミュージシャンを演じる」ということ以上に困難な、いや、むしろそれとはまったく異なる“自分自身としてそこに立つ”表現の恐ろしさをまざまざと感じていたに違いない。

そういうことを、放送を見ながらいろいろと感じさせられていたんだな、こちらも…と改めてよくわかった。

それにしても生放送は何が起こるかわからないからやっぱりすごい。これを書きながら、久しぶりに、かつてのミッシェル・ガン・エレファントがミュージックステーションで急遽やってのけた生放送・本番一発だけの生演奏「ミッドナイトクラクションベイビー」の動画を見たくなって検索してしまった。あの時の映像は、何度見直してもなぜかかっこよすぎて涙が出る。結局、ミュージシャンとはそういう存在なんだなあ。そこに立ち、演奏をするだけでその場の空気を一変させ、その瞬間に釘付けにさせる力を持った表現者たち。

こんなことを書いていたらば。

すべての中間的な存在で葛藤しながら変容し続ける菅田将暉を見られるのは、もしかしたら本当に今だけなのかもしれない、と思えてきた。そんな風に思わせてくれる役者はやはりラフダイヤモンドであるだろうし、それが磨かれてしまう前に、みんながオファーをしたくなる。そんな存在なんだろう。だからきっと今、信じられないくらい映画のオファーが殺到しているんだ。

役柄へのチューニングをする集中力と、その濃度を支えている素の状態でのフラットさ。

スポーツマンのようなストイックさを持ち合わせながらも、変幻自在な役柄になりきることのできる感性からにじみ出る色気をも同居させている存在は、なかなかに稀有だ。

不安定なところに立った時、人は自分自身を変化させる必要があり、その迷いや戸惑いこそがそれをそばで見ている他人をも奮い立たせるのだろう。

役を演じるだけでなく、アーティスト・菅田将暉 としても生きていかなければならなくなった今、彼のあのバラエティ番組などでたまに見せるぼんやりとした眼差し(ただ単に視力が弱いのか、フラットなオフ状態だからなのかはよくわからない。きっとそのどちらもだ)はもうなかなか見れなくなってしまうのかもしれないなと思うとやっぱり少しばかり寂しくもあるのだが、きっと彼は今後ものすごい勢いで表現の世界を切り開いていくのだろうから、そんなケチくさいことを悔やんでいるわけにもいかない。

集中力を保つためにも、無心になれる服作りの時間(洋服作りが趣味で、あの不思議な服たちは自分でミシンがけして制作していたりするという。一体どこまで創作者なんだ)もきっと大切なのだろうが、もはやその時間は現状、十分に取れなくなっているだろう。そしてむしろ、そういった服作りのようなものもすべて、今後は表に出していくことを世間に求められてしまうだろう。

たとえば。野田地図において妻夫木聡が参加してきた「キル」「エッグ」「足跡姫」などを思い出してみる。舞台の上でもひときわ光を放ちながら、希望や純粋さを保ち続けられるという存在は、極めて希だ。しかし菅田将暉に感じるのはその類の可能性だ。しかしながら彼の場合、さらには光と同時に影を表現することにもものすごく長けていて、存在の中にある陰影のコントラストがひときわ強い。そこに、単なるイケメンでも、単なるチンピラやヤンキーでもない、底も屋根もまったく見えない広大な4次元的フィールドが広がっているように感じられてゾクゾクするのだ。

20代前半という、体力のピーク的なときに、芝居においてできるかぎりの要素を吸収しきろうとしている様はとても清々しかったが、彼が今後どういう役者・表現者になっていくのかは、もはやまったく規定することに意味がないだろうし、むしろ音楽なのか、服作りなのか、はたまた何か文章でも書き始めるのか、ラジオでのトークなのか。いやむしろ踊るのか。あるいはもっと誰も想像していなかったような表現へと昇華させていくのか。まったく測り知れない。

…が、ここでまずは「歌」だ。歌い始めるってことで、一気に掛け算の要素が広がったように思うし、まあそんなわけでやっぱり今後の化学反応も想像しきれない。掛け算がもはや未知。菅田将暉は那由多である、とか言いたくなる。

今後、舞台やライブ会場でも観られる日が楽しみであるし、表舞台だけでなく、時にはアンダーグラウンド、オルタナティブな世界でも楽しみながら。さまざまな彩りの光が重なり合った中心に真っ白な空白の部分をも持ち合わせながら(つまり、今後も精神的衛生を保ちながら)邁進していただきたい。

ちなみにここまで書いてきたが。

もしあの「初めてのミュージックステーションでうまく演りきれなくてとても悔しかった菅田将暉」という状態自体が、彼なりのすごい演技だったらどうしよう!などという、あらぬ妄想までし始めてしまった。いやこれ、映画「ピンクとグレー」を観た方ならば、その恐ろしさすらわかってもらえるんじゃないだろうか。ははは。

何かの話の流れではあったが「主人公は簡単には幸せにはなれへん」と「菅田将暉のオールナイトニッポン」でCM前のわずかな時間にふとつぶやいていたのがとても印象に残っていて、それは菅田将暉という役者の矜持を垣間見たかのようにも思えた。彼はそうやって今後「菅田将暉としてのストーリー」を編んでいくのだろう。

とにかく非常に豊かに表現のポテンシャルを持った彼に、私(たち)はこれからもたくさんの刺激をもらっていけることだろう。音楽や表現に関わる世界の端くれとして、彼のそういう姿にはとてもインスピレーションをもらい、自分も負けねえ と日々鼓舞させられている。

だからあまり疲れすぎない程度に、これからも邁進してください、菅田将暉さん。

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ということで、皆さまご心配なく。鈴木はあんなにロックバンドや音楽が好きだったくせに、突然イケメン俳優にうつつを抜かしてどうしちゃったんだ一体、みたいなことでは、全くないのです。

菅田将暉はロックバンドと同質の面白みに満ちた存在であり、さらにこれからも彼にはもっと音楽的な表現をしてほしいという思いが高まったあまり、ここまで筆を走らせてしまった、というだけのことなのです。

▼6月放送のNHK「LIFE!」ではオットセイになるそうです。映画「火花」や「あゝ、荒野」もとても楽しみだ。

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