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古代ヤマト誕生〜ニギハヤヒは誰を殺したか?【6】ニギハヤヒの正体

初代神武、2代綏靖、3代安寧天皇が出雲の姫を娶った……。
これは国書である「記紀」の記述です。考えてみればこれはとても意味シンな内容。なぜなら3代にわたる出雲系と九州系の婚姻は、天皇家の半分は出雲の血脈だと言っているわけですから。
出雲系と九州系、それに吉備系でスタートした天皇家。ところがその後、なぜか記紀から出雲との蜜月の記事がいっさい消えてしまいます。
これは何を意味しているのでしょう?
九州系と出雲系と吉備系とが同盟を組み、ヤマト建設に乗り出すのではなかったのでしょうか?

この謎に答える人物がいます。神・ニギハヤヒです。
そう、神武天皇を勝利に導いたニギハヤヒ。
彼を探ることで何かが見えてくる。そもそも彼はいったい何者でしょうか?
そこから検証していきましょう。

ニギハヤヒ


日本書紀などによると、彼はイワレビコに先立ちアマテラス大神から「十種の神宝」を授かり、天の磐船(あまのいわふね)に乗って、一大船団で河内国(大阪府交野市)、現在の磐船神社あたりに降臨、そののち大和入りしたと伝えています。そして大和王であるナガスネヒコと行動を共にし、妹を娶り、子ウマシマジをもうけた、と。

つまり国家(天皇)の書物でも、ニギハヤヒは神武天皇より先に大和入りした”天孫族”である、と明記している。見方によっては、アマテラスから神宝を授かり天下っている以上、ニギハヤヒが正当な初代天皇であっても良かったわけです。
にもかかわらず、最終決戦となった局面で「あなたは性格がひねくれている」という理由で、ニギハヤヒはなんとナガスネヒコを殺してしまい、イワレビコに帰順して忠誠を誓うわけです。


さて、記紀の世界から戻り、現実的な話をしましょう。
3世紀前半、天皇家が成立した「纏向」。そこに居た人物は誰だったのでしょうか?これは纏向遺跡における搬入土器の出身地を表したグラフです。

(Wikipediaより)

記紀の記述に沿って考えると、この中にニギハヤヒ勢力の痕跡はあるはずです。
伝説上の人物だから実在はしないのでは?と考えるのは早計で、ニギハヤヒの子・ウマシマジは物部氏の祖に当たります。
物部氏は、6世紀蘇我氏により壊滅されて実態はつかめていませんが、武器や軍を統率する氏族の一面と、「もののべ」つまり「もの」を「述べる」氏族の一面。「もの」とは「もののけ」のことで精霊や魂から声を聞き、口うつしをするシャーマニックな一族でもありました。
物部氏はのちに天皇皇后の御霊を鎮める鎮魂祭を行い、その儀礼は今も宮中をはじめ石上神宮・物部神社などで続いているとされています。天皇の即位儀礼「大嘗祭」でも物部氏の儀礼を一部踏襲しているという説もあります。

物部氏の祖神にして、イワレビコとともに協力して活躍するニギハヤヒ勢力とは一体誰なのか? この中の誰が当てはまるのでしょうか?

もう一度グラフに戻ります。

これによると、伊勢・東海地区が圧倒的に多く、ついで北陸・山陰ですね。
伊勢・東海というのはもともと数十年前まで、銅鐸を信奉していた民と地理的に一致します。ひょっとすると彼らが銅鐸を捨て、新たな神と鉄器を受け入れ、都市建築の下支えとなったのではないでしょうか。

その次は北陸・山陰。
北陸・山陰というと出雲国にあたります。やはり「出雲」は纏向にいたのです。地理的に決して近くないのに、これだけ出雲の民が大挙してやって来るとは、四隅突出型古墳で培った高度な土木技術を纏向でも発揮したことを示していると言っていいのでしょう。

吉備国の民も来ています。双方中円墳の改良型として前方後円墳の設計に大いに力を注いだはずです。
それに対し、九州系搬入土器はありません。記紀の記述が嘘だったというよりも、これはイワレビコ称する九州勢力が、少人数で大和入りし、その後も九州からの民が纏向建設に協力しなかったことを意味しているのでしょう。
記紀では纏向天皇家が12代景行天皇より九州征伐をしたと伝えるので、すでに纏向開闢のこのときより、ヤマト政権と九州政権は敵対関係にあったと思われます。

では、ニギハヤヒは誰か?どこの勢力なのか?
のちの古墳の推移から考えれば、こう考えるのが最も自然です。

吉備。

吉備勢力は九州勢力に先駆けて大和纏向に入りました。
ニギハヤヒもまた、神武天皇に先駆けて大和入りしていました。

初期古墳には吉備系の色彩が濃いこともわかっています。
纏向から至近距離の大和古墳群には全長155mの櫛山古墳(4c)がありますが、これがなんと双方中円墳。吉備系の王が堂々と大和に墳墓を造築したことに驚きです。
また3世紀後半には「箸墓古墳」と完全に2分の1サイズの「浦間茶臼山古墳」が吉備(岡山市)に造られました。これはお互い築造計画など綿密な打ち合わせが必要だったでしょう。吉備の開拓者がヤマトの中核を成し、故郷・吉備国と太いパイプで結ばれていて初めて可能だった事例なのではないかと考えます。

吉備国とヤマトはこののち呼応するように、双方で巨大古墳を作り、蜜月関係を築いていくのです。

一方、ニギハヤヒは河内国に降臨したと伝えられていますが、河内国の八尾市の遺跡からは多数の吉備系土器が出土しており、これはニギハヤヒゆかり地の近くに、吉備の人々が住み着いた痕跡と言えるでしょう。
もし吉備から畿内へ上陸するとしたら、瀬戸内海を渡って大阪湾より河内湖に入り、八尾市を含む中河内に拠点をおき、そこから大和入りしたと考えるのが自然。

これらから、ニギハヤヒ(物部族)=吉備系勢力が妥当だと言えます。


もっともニギハヤヒ(物部族)が吉備で勢力を張る以前は九州など各地にいた可能性もあり、そのような痕跡も残っています。正確を期するなら”吉備物部氏“
が大和入りしたと言うこと。こののち古代天皇と物部氏はタッグを組んでヤマト政権を確立させていくのです。

では、出雲はどうしたのでしょう?
実はその後の古墳の状況から察すると、出雲とヤマトでは驚くべき事態となっていたのです。                        (つづく)

全10回 **************************************************
(1)古代王は誰?        (2)殺された109体は何を語る?  
(3)なぜ大和が都になった?   (4)そして纏向に集まった
(5)神武東征伝説は本当か?   (6)ニギハヤヒの正体は?
(7)ナガスネヒコの正体は?   (8)なぜニギハヤヒはナガスネヒコを殺したのか?
(9) 箸墓古墳はなぜつくられたか? (10) 纏向は邪馬台国なのか?


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