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身体を動かすことが好き

小学校、中学校と野球をしていた。身体を動かすのが大好きだった。

あと、身体の動きを見るのが好きだった。人が投げる動き、打つ動き、走る動き。力が抜けて、無理のない動きを見ると感心してそれは真似、がちがちに筋肉を強張らせ、バランスの悪い動きをみると、あれはだめだな、とひとり思っていたものだ。

僕の子供の頃は毎晩テレビで巨人戦のナイター中継をしていた。巨人ファンだった僕は試合自体も楽しんでいたが、プロ選手の身体の動きに興味を持っていたように思う。とくにスロー再生が好きだった。

そんなこんなで、僕の自主練は鏡の前が多かった。家の前の道路でよく練習をしたが、前の家の玄関が大きなガラス戸だったため、姿が良く映った。
そこに自分の姿を映し、頭の中ではプロの動作を映していた。

何となく真似ることは上手だった僕は投げるにしろ、打つにしろフォームは良かった様に思う。良いフォームというものが頭の中でいつもイメージできていた。好きな練習はシャドーピッチング、素振りだった。一人黙々。

これは練習なので当然、大事なのは本番。試合である。流れの中でこの動きを活かすことが大事だ。ボールを投げる。ボールを打つ。

もう野球をしなくなって何年も経つが、今になって思う。投げたり、打ったりすることよりその動きに興味があって、ある意味「美」を感じていた僕にとっては結果に捉われるのは面白くなかった。困ったもんだ。
打った結果、思うように飛んだかというよりは、美しく振れたか。
そんなことを思っていた気がする。感覚としては空手の型のようなものだった。
しかし野球は結果を競うゲーム。美しく振れたかなんて関係ない。そこに面白みが感じられないので、徐々に意欲も下がっていった。野球は中学で辞めた。もちろん、この事は今になって振り返って感じる事。当時はやる気がなくなったと思っていた。

スポーツひとつ取ってみても、今は何を競うか様々で、ただただ走る早さを競う競技もあれば、フィギュアスケートのように動きの美しさを競うスポーツもある。
きっと僕は動きの美しさや型を競うことが向いていたと思う。
誰と誰が戦って、勝ち負けのルールがあって白黒をつけるより、ひとりひとりが自分のベストの動きをしてそれを第三者が評価する、そのことの方が興味を惹かれる。
僕の妻はフィギュアスケートが大好き。シーズンになるとよく一緒にテレビで中継を見る。フィギュアは100%自分との闘いだとおもう。自分の動きを再現できるか。そしてリスクを取って難しい技に挑戦する。そこに見てる側も興奮する。
こういう採点競技は根本に「美」「芸術性」がある。

スポーツの中に芸術性が盛り込まれてきたということは、見方を変えると求められる人間像が変わってきたと言えるのかもしれない。
きっと車や電車が無かった時代は人がものを早く運んだり、長い距離を運べたりすることに価値があって、それを競い、早い人を褒め称えたというようなことはあったと思う。今では初めから競技となっているけど。
それが最近のスポーツでは芸術性を評価の基準の一つとすることも多い。

これってよくよく考えると古くからの日本の精神に近い気がする。
スポーツが入ってくる前の日本は何々道と言われるものが多く、芸術性や精神性を重んじていた。

その何々道を通じて、人間性を高める。そこに意味があったのだろう。
初めから勝者と敗者が出るそのあり方ではなく和を以て尊しとする、精神で出来上がった形なのかもしれない。

当時結果に興味を惹かれなかった僕は特定の競技は辞めたがずっと身体を動かすこと、身体に興味はあった。

姿勢や動き、走ること、歌うこと、身体を使ってすること自体に興味があって、何となく続けてきたことも多い。

身体を使うことにとってたどり着きたい境地とうか、精神性というかそういったものに憧れている。
そのことは、子供の頃、鏡の前で身体を動かしていた自分と今でも繋がっていて不思議な感じがする。

身体を動かすことが好きということって本当は奥が深い気がする。