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カラオケ行こ!について講釈垂れる新規オタク - 2024/01/28 日記#224

漫画『カラオケ行こ!』及び『ファミレス行こ。』、映画『カラオケ行こ!』のネタバレを含みます。

・ひたすら甘い期待をぶった切る講釈垂れるだけ。

・オタクの皆さん、新規オタクの感想好きでしょう。提供します。pixivで『うしろの二階堂』やTwitterで『女の園の星』の切り抜きエピソード(クワガタボーイ)は読んだことがあり、『カラオケ行こ!』も随分前から存在は知っていたのですが、今回の映画化を期に読みました。

・これは本を読んだ上で個人が受け取った感想であり、事実ではありません。的を得てもいません。ただの感想です。私の考えの情報整理です。

・情報を追っていて気づいたのですが、この作品は和山やまさんがサイン会にてファンに質問されて答える、という形で情報発信した、ファンの間では定説になっているけれど現段階で本には描かれていない、という半公式の共同幻想がかなり多いです。作者御本人の発言だとしても、後から思い返すと違ったなとか、続編や番外編を描いていく上で変わったな、という部分もたくさんあると思います。このnoteで言及されているものも真に受けすぎず、注意して読んでください。

・そんな空白の多さ、読者へ解釈を委ねる懐の広さがこの作品の魅力のひとつだと思うので、同じようにこの感想文もそう感じる人もいるんだな、くらいで読んでください。

・一旦準備運動として自慢していいですか?当日に知ったんですけど、わたし綾野剛さんと誕生日一緒でした。いいでしょ。




・まず、狂児→聡実の感情って、今のところ恋愛や性愛にははっきり繋がってる描かれ方はないんですよ。あたかも恋愛かのような感想が多いですけど。

・名前彫ったり(がちヤバイ)、大阪からわざわざ聡実とご飯を食べるためだけに新幹線乗ってきたり(通称通い妻)、蒲田に用事を作るためにスナック作ったり(しかも聡実には親父の女に持たせていると嘘ついてまで)【4/9追記 聡実の方があとから来たらしいです(韓国サイン会情報)】ピザトースト頼んであげたり、お肉は全部焼いてあげて壺に入ったカルビも食べやすく切ってあげたり。聡実のことが大好きなのは誰の目にも明らか。だけど、そこには保護者的な目線での愛しかないのではないかと。息子くらい年の離れた血の繋がりのない同性を甲斐甲斐しく面倒を見ている多くの大人はそうだと思う。

・年の離れた兄弟、甥っ子、息子、なんだっていいけど、狂児にとっての聡実は可愛い可愛い保護対象。あらゆる女のヒモをやって生活してた過去がある狂児が、中学生の頃から知っている聡実を性的対象として見ている可能性って凄く低いのではないかと。いやまあ、ちゅーしたいくらい可愛いとは思っているだろうけど、それは愛犬にちゅーしたい気持ちと同じというか。

・映画版では「愛」が一つのテーマとして扱われているように見えるが、それは何も恋愛や性愛だけではない。家族愛、友愛も含む人に対する愛、合唱に対する愛、歌に対する愛、映画に対する愛、土地に対する愛、空間に対する愛、物に対する愛、原作に対する愛。愛って色んな形があるわけです。

・おそらくだけど、狂児にとってここまで何かに執着する経験は初めてなのではないかと思う。家は女の所を転々とし、服もその女たちが選んだもの、200万を超える時計だってぽんと渡せてしまうし(聡実だから、かもしれないけど)、ヤクザに拾われてその道に進む自暴自棄さ、口止めされているのも忘れて北条麗子のことをみんなに話してしまう口の軽さ。自分も他人も物もあまり大事にしてきていないような印象を受ける。だけど聡実と出会って初めて文字通り自分の体に刻んで一生忘れず共に歩んでいきたいものを見つけた、というか。そりゃ組長や組のみんなや家族だって大事だろうけど。

・そして、狂児が元々女をたらしこむのに使っていたテクニックを、意識的にか無意識にか使われていた聡実。しかも中学生という最も多感な時期に。そんな聡実の方が恋愛に近い感情、聡実自身も世間に通じる言葉で言うどれに当てはまるのかよくわかっていない、狂児に対する嫌悪と愛着を感じていて、そんな自分の感情の扱いに困っている感じ。

・聡実の貴重な高校生活3年間は、狂児とのひと夏の思い出には勝てなかったんだよね。映画版では合唱部や映画見る部など同級生との掛け合いも盛り込まれていて、同じように高校生活もきっと楽しい思い出がたくさんあっただろうと思う。それなのに、卒業文集という高校生活を共に歩んできた同級生たちが読む冊子に、わざわざ中学時代の思い出を書くなんて相当だよ。「脳みそまで甘くなったようでした」なんて綴れる度胸も凄いよ。音楽の趣味なんかが似ててちょっと話すようになって、目立ちはしないけどシュールで儚げな聡実の魅力に自分だけが気がついて密かに憧れていた同じクラスの女の子が「こんなの勝てないよ」って失恋するところまで見えたもんね。私のような萌え豚が身内でオカズにしている風景も見えたけど。めっちゃごめん。

・聡実はいちごや炒飯やカラオケを見るたびに狂児の顔を思い浮かべては消してたんだろうか。狂児じゃない人が運転する助手席に座るタイミングはあっただろうか。ずっと狂児の存在に囚われ続けて、もう二度と会えないだろうけど、でも狂児のことだからまたふらっと現れるかもしれない、きっとそんなことを考えていたでしょう。そしていざ3年ぶりに再会したら腕に自分の名前彫られてた聡実の気持ち、想像できん。

・「成長できひんのは全部あいつのせいや」という独白。3年も月日が流れて聡実は身も心も随分大人に近づき、実際高校生活も大学生活も大きな不自由なく過ごしているのだと思う。だけどその日常に狂児が入ってくることで、狂児との関係性は中学時代から何も変わらぬまま、相変わらず「大人ってずるい」「いつも余裕な顔して自分は振り回されてばかり」「なのにいつも冗談ばかりで核心をついた話はしてくれないのも子供扱いされているように感じる」「自分の大きな覚悟や努力が、狂児にとってはちっぽけなものでしかないのがむかつく」と自分が何も成長していないように感じてしまうのかな、と思った。

・美味しいごはんは食べたいし、狂児が嫌いな訳では無い。彼女かって突っ込まれるような頻度でスマホを見ては狂児からのメッセージがないか確認して、通知がくれば返信に悩んで打ち直し、結局は会いに行く。でもそれは同時に何年経っても狂児には敵わないし拒否できないうじうじした自分を見つめる行為になり、結局はイライラするばかりだから会いたくない。会いたくないけど会いたいから「焼肉は食べたい」って言い訳しながらも狂児に会う。そんな相反する気持ちで葛藤していそうな気がする。そして聡実自身はそこまで自分の感情を言語化、整理できていないので、余計にぶつけ方がわからない苛立ちやフラストレーションを心のうちに貯め続けているように見える。狂児のことが好きなのに嫌い、関わってはいけないこともわかってるのに会ってしまう、自分なりのけじめが付けられるまではそれも許されたい。そんな感じ。それがまさか「確認」に繋がるとは微塵も思っていなかったけれども……


・単行本上巻のあとがきに「主に聡実くんの幸せを考えて」と書いてある。聡実にとっての一番の幸せ、私が客観的に見ると、狂児とは縁を切りもう二度と会わないことだと思う。

・前科持ち、中学生相手に恫喝する強引さ、暴力に一切の抵抗がない、なのに気遣いや優しさやカリスマ性はあって男女問わず人をたらし込むのがうまく、そのくせ本音や決定的な約束や答えはくれずのらりくらりと躱されて、いつかふらりといなくなってしまいそうな四十路男、どう考えたって地雷だよ。ヤクザじゃなくたってだめだよ。

・でも、そんな悪魔みたいな人間に魅了されてしまった者には、ダメだとわかっていても離れられない呪縛ってのがあって、一生苦しむことになるんだ。狂児に出会ってしまった時点で、もう聡実の幸せの最大値が一段下がったというか。yasuが言うには「ここで落ちたって渡りきったって どちらにせよ待つのは地獄でしょう」、とそういうこと。古いかな。古いか。

・そんな男のことは死んだと思ってすっぱり忘れて、一人でも二人でも一匹でも、何でも良いけど聡実にとって心休まる場所を探して欲しい。それが家族や友情や恋愛や、そのどれでもない関係でも。一人が気楽ならそれでもいい。あんな大量のLINE私には来たことないから、きっと聡実には男女問わずたくさんの友達がいるんだろう。狂児がいなくたって、いや、きっと狂児がいないほうが聡実の人生は円滑に回るのだと思う。

・そもそも、別にお互いがいなくてもきっと二人はなんてことはなく人生を歩んでいきそう。甥っ子や姪っ子に対し「元気でやってたら別にええわ」と発言する狂児に対し、聡実は「僕も」と言っていたので、おそらく狂児に会わなくてもどこかで元気に生きててくれてるのならそれでいいと感じている、そうであるべきだと考えているんだろう。

・狂児もいつか言い出される別れ、もしくは自分から立ち去る覚悟はどこかで決めていると思う。私が狂児の立場だったら、未来ある若者を、本格的にあとは老いていくだけの年齢になった、しかも反社会に属する自分に縛っていてはいけない、早く開放してあげなきゃ、と考えると思う。聡実が大事であればある程に。もし万が一聡実に対する特定の感情があったとしても、絶対に手を出してはいけない、というのは狂児なりのギリギリアウトな線引きだと思う。それでも今会い続けているのは、モラトリアムというか、ロスタイムというか、得意の強引さというか。「死にたくなってもこっち来たあかんよ」、それはきっと普段色んな物事を茶化したり誤魔化している狂児が一番真剣に聡実に伝えたい台詞なのだと私は思った。交わってはいけないことを十分理解していて、記者に接触されいよいよ聡実の安全が脅かされ始めている、離れるための外堀が埋められているように見える。それなのに、肝心の聡実からは「確認」されてしまう。狂児はこれからどうするのでしょうか。

・それでも隣にいることを選んで欲しいなと思うのは私の勝手なエゴだ。

・ヤクザとは縁を切ってすべておしまい、そんな拍子抜けなエンディングを和山やまさんが用意しているとも思えないし。


――では、最初に描かれていたのはBL作品だったのでしょうか?
和山:最初はBLのつもりで描いていたんですが、なぜかギャグ漫画になっていったので、早い段階でギャグに転換しました。

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・その他の記事でもBLについて言及しているものがあり、和山やまさんが漫画を書くきっかけになったのはBL作品ということ、初期作品はBLを意識して描いていたことを考えると、『カラオケ行こ!』も主軸としてはBLが意識されているかもしれないし(どこかでその点に言及されているかもしれませんが私は存じ上げません)、今後はっきりとそっちに舵を切る可能性も十分ある。でも、冒頭にも書いた通り、現段階ではどちらとも取れるはっきりしなさがこの作品の面白さのひとつだと思っている。

・これはメタ読みだけど、とはいえ、メインやコアなファン層の中に二人を恋愛関係として見ている人も少なくないとおそらく作者や編集部も把握した上で「確認」をぶち込んできておいて、それ以上なにもないって展開にはならないのでは、と考える。個人的には、下手したらクィアベイティング(クィアっぽく見せて消費者の期待を煽るが、実はクィアではなかった、という展開で消費者を釣る行為)って言われる可能性も視界に入ってくるくらいの描写にはなってきていると感じているからだ。

和山やまは、BL(ボーイズラブ)から恋愛要素をギリギリまで削ぎ落とした男の子の友情物語を、脱力したコメディとして描くことに定評がある。

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・一言でカテゴライズするのであれば「ブロマンス」と呼ぶのが一番近いのだろうが、私は世間一般で言う「ブロマンス」ではなく「恋愛要素をギリギリまで削ぎ落としたBL」という表現の方がしっくりくるな、とこの記事を見て感じた。恋愛要素がないなら「ボーイズラブ」じゃないじゃん、と思うかもしれないが、一般的な「ブロマンス」における固い友情やバディ感は薄く、当てはめるとすれば結婚という覚悟が決まらなければいつか必ず離れる時がやってくる恋人関係のほうが近しいけど、そこに恋愛描写はないという感覚。

・『カラオケ行こ!』の表層はあくまでローテンションでくすっと笑えるコメディ作品だと思っていて、裏側にある湿度の高さは読み手が自分の好みや解釈に合わせて各々調節できるというか。目に見えているものだけをさらりと受け取るのも良いし、ごちゃごちゃと内面を掻きむしって自分なりの論拠を見つけるのも良い。

・昨今の(特に大衆向けの大きな商業)作品は一から十まですべて作品側が説明する義務を負っている感覚があり、このように読者側に委ねる空白部分が多い柔軟な作品は貴重になっていくのかもしれないね。


・我が家の近所には指定暴力団◯次団体(一応伏せ)の事務所がある。『カラオケ行こ!』の映画を見た帰り、とんでもない大雪の日で、おそらく下っ端と思われる兄ちゃんが雪かきしてて。狂児たちは呑気にカラオケしてるのに、この人は夜も更けた時間に寒い中一人で雪かきしてんだなって妙に現実味を感じたね。映画内ではいかにもな怖い風貌のおじさんたちが出ていたけど、現実は見た目どこにでもいる普通の兄ちゃんたちなんだよな。こないだ栄養ドリンク箱買いして事務所入ってったわ。昔やっていた仕事、まあ綺麗な刺青がびっしり背中に入った方と対峙することもありましたけど、もちろんそんなものには触れません。暗黙の了解ってやつです。

・この人たちと私達の生活は絶対に交わってはいけないし、お互い見ないふりして深くは関わらない、そうしないといけないんです。なんとなく、彼らとエンカウントする時はそう思っていました。ましてや聡実は中学生(~大学生)。もう本当に、絶対に何があってもダメなもんはダメ。

・だけどその現実ではダメなものも創作でなら許される、創作を読むことで満たされる、そういう世界であって欲しいと同時に思う。危険だから規制するのではなく、多角的な視点で物事を見る大事さは忘れず、危険だから危険性を学んだり適宜ゾーニングをしたりしながらフィクションとして楽しむ余裕があって欲しい。

・大前提として、世の中の創作物は例えノンフィクションと書かれていても間違いなく創作物であり現実とは異なるものである。その上で警笛を鳴らすのは周りにいる身近な大人たちや自分で考えて調べて勉強してたどり着く答えであり、視聴者側が何も考える必要なくただ与えられるものを享受していればいいだけ、色々な余地を作品側がすべて潰さなければならない社会にはならないことを願う。


・ところで、私は「😂」←これを使う人間をすべからく信用してません。成田狂児、信用ならない。



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