信頼はなぜ裏切られるのか?-操作される信頼-

※当記事は、2021年6/17に配信された「【業界ガチトーク番組】アキナ と 夜会 9」にて、発表した内容をまとめたものである。

当配信で私が発表した内容は、以下の著書を参考にしたものなので、詳細は引用元を読んでほしい。

著書情報

信頼や裏切りとは何か?【第一章要約】

「信頼」や「裏切り」という言葉、あるいはそれに該当する行為については頻繁に使われるが、その厳密な定義を定めることはできない。また、人によって「信頼できる」「裏切られた」と感じる要素は違う。

本著の第一章では、以下のような形で「信頼」と「裏切り」がどういうものなのかに迫っていく。

信頼とは何か

裏切りとは何か

端的に言えば「信頼」も「裏切り」主観的な判断指標なので、人によって定義は異なるが、だとしても「信頼できる人」「裏切りだと呼ばれる行為」などの認識は多くの人で一致する部分があると思う。

その多くは、本著のサブタイトルにもある通り「無意識」なのである。

まずは、信頼や裏切りの心理メカニズムを理解することが、本著を読み解き、何かに応用していく、または自分自身の信頼・裏切りに対する付き合い方を考えていく上で、重要だ。

操作される信頼~テクノロジーへの錯覚~

第7章の「操作される信頼」が、配信でのメインテーマであった。

従来、「機械・テクノロジーへの信頼」と言えば、多くは「品質」に対してであることが多かった。

それが近年、GAFAのような巨大プラットフォーマーの登場、SNSの日常への定着により、流れとしては「社会的な責任」までが信頼の評価値となりつつある。

機械への信頼

たとえば、Googleの提供するテクノロジーに依存するインターネットサービスは多くなったが、YouTube上に倫理的に問題のある広告が流される事例は跡を絶たない。

これは「自動広告」と呼ばれても、広告出稿プロセスに人の判断が入るので、「アドテクノロジーが勝手に表示した」と言い張っても無理がある。

その他にも、GAFAのような巨大IT企業がテクノロジー以上の力を持ちすぎたがゆえに、求められる信頼も大きくなったが、これに対しての批判や警鐘は、以下の書籍が詳しいので、気になる方は参考にしてほしい。

さて、話題が少し逸れたが、この章で論じられる「テクノロジーで操作できる信頼」では、以下のような論点で様々な事例や現象が紹介されている。

1.人は人間よりもテクノロジー(機械)を有能とみなしがち
2.アバターにより「自分に力がある」という錯覚が生まれる
3.アバターへの信頼が人間の対人対応を上回ることもある

まずは「人は人間よりもテクノロジーを有能とみなしがち」ということだ。

操作される信頼1

この事実を突き詰めるにあたって「人間は利害を元に動くのでいかさまをする。ゆえに信用できない」という前提があり、消極的に「願望を持たない機械(テクノロジー)は信用できる」という考えがあり、これは多くの場面で無意識に利用されている。

また、「科学的な根拠があった方が、信頼があがる」という現象について、科学者が皮肉って「MRI効果」と名付けた心理効果がある。脳の特定部分が光っている画像を見せて、そこが活性化している理由を適当にこじつけたら、説得力が増すという効果であるというものだ。

その説得内容に確実な根拠がなくても「科学的なもの」があるだけで信憑性が増すというのだから、少なからず「ある条件や前提下では、人間よりはテクノロジーが信じられる」というわけだ。

この心理効果を活用すれば、恣意的に信頼を操作することは可能だということが示唆されている。

次に「アバターによって人格は乗っ取られる」ということについて。

操作される信頼3

これは「プロテウス効果」という心理効果が紹介されている。

端的に言えば「バーチャル上のアバターの見た目や印象が自分自身の人格に影響を与え、リアルの行動や性格にも影響される」という現象についてだ。

これについてはプラスの側面もマイナスの側面もあるので一概には言えないが、ネット世界では「自分自身の意志に反して、アバター自体、またはアバターを通した人格や能力が過大評価され、自分自身の性格や行動も乗っ取られる」という効果があることは、なんとなくお気づきかと思う。

FPSゲームを行うと暴力的になり、果ては画面先の相手を撃ちに行くなどの事例もある。

いずれにせよ「単なる道具」としてしか機能しないという想定でアバターを運用することは、危険が伴うということだ。

余談だが、ハイデガーの「存在と時間」では、以下のようについて「道具」への認識が論じられている。

道具は、厳密に言えば「ひとつ」で存在することはありえない。
道具は常に「道具全体」が属しており、その全体の中で道具は道具足りえる。
道具とは「~のために或るもの」なのであって、「のために」には「或るものから或るものへの指示」が宿っており、「のために」はそのつど「道具全体性」を形づくるからである。

「道具全体」を「使用目的・使用用途」に当てはめて考えると、アバターの「道具全体性」は不明瞭であることが多い。

たとえば「自己表現(誰かに何かを伝える)」という用途で作られた「クリエイターのためのアバター」と、そのアバターを使う「ユーザーのためのアバター」は、違う「道具全体性」に属する。

「或るものから或るものへの指示」が宿っているのであれば、たとえば「自分が有名になって認められたいから作られたアバター」は、元来、その使用用途に準じて使われるべきだが、現実としてはそうはならない。

道具との交渉そのものにおいて、道具が「自分を示す」。
たとえば、ハンマーを振るうことによって、ハンマーの「手頃さ」が覆いとって、発見される。
そのように、道具がそのうち「自分自身の側から」みずからをあらわにする存在のしかたが「手元にあるありかた」と呼ばれる。
(中略)
手元にあるありかたは、むしろ、存在者の「自体的なありかた」なのである。
このような手元にあるありかたから、さらに、世界の世界性が問われなければならない。
そのためにはまず、周囲世界が世界に適合したありかたをしているしだいが分析される必要がある。

端的に言えば、「アバターという道具は使う人間の使い方によって世界が形作られる」ということであり、道具自体が本来持つ目的の範囲を越えてしまっている。道具が「~のために」の用途を越えてしまった場合は、世界の世界性を問われなければならない…という話がハイデガーの「存在と時間」でも書かれている。

この話は非常にややこしいので、また次の機会にでもお預けだ。

最後に「アバターによって信頼は操作できる」という話だ。

操作される信頼2

ある医療患者に対し、看護師の役割を担うAIエージェントを活用したところ、現実の看護師よりも「人間的で親切」という評価が下された事例がある。

しっくり来ない方に、端的に説明するなら「家族に相談して物事を聞くよりも、Googleで検索したほうがわかりやすくて親切」だと感じた経験があるなら、それは「アバター(テクノロジー)によって信頼は操作されている」と、感覚値でご理解いただけるかと思う。

このように「自分にとって親切な人=信頼できる人」という狭い認識の中に限って言えば、テクノロジーによって簡単に「信頼を操作できる」という研究結果が報告されている。

この事実をどう受ける取るかは個々人の自由ではあるが、少なからず、バーチャルやアバターに接している者は、この恐るべき事実を目の当たりにし続けているはずだ。

テクノロジーによって変化していく「信頼と裏切り」を理解していく必要のある時代になっている

ざっくりとではあるが、AI時代、あるいはアバター時代になっていく世界において「信頼のメカニズム」は変わっていくし、使い方によっては「操作される」という研究結果もある。

また、そもそもが「人に対しての信頼や裏切りという概念」自体、正しく認識できている人は少ない。

以上のようなことを踏まえた上で、世のため人のためになる、価値ある技術や運用方法を提供していく、あるいは暴走した技術を制御するというのが、テクノロジーの時代に生きる我々の努めの一つになっていくだろう。

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