見出し画像

片岡義男『冬の貿易風』

そのブックストアは、奥行きが深い。歩いていくと、両側にいくつものアルコーヴがある。そのなかにいるとなかば個室のようであり、本を選ぶ人の気持ちは落ち着く。今日は人がすくない。土曜日の午後のあいまいな時間だ。外は、冬のホノルルにはときたまある、どしゃ降りの雨だ。

宗教書の棚の手前の、現代の作家たちによる短編集を集めたアルコーヴに入った。女性の客が、棚にむかって立っていた。ひょっとしたら日本の女性かな、と思った。うしろ姿に微妙な優しさがあった。髪のつくりは無造作にみえて完璧だ。彼女は陽焼けしていた。すでに自分の肌の色となっている陽焼けだ。

隣りのアルコーヴへ移ろうとした彼女は、ぼくを見て体の動きを止めた。なにごとかを確認しようとしていた。
「昭彦ちゃん?」
「そうです」
「やっぱり!」
「お姉さん」
と、口から反射的に出た。
ハワイにむけて東京の空港から出発する彼女を、ぼくは見送っている。18歳のときだ。彼女は23歳だった。

そのブックストアは、奥行きが深い。歩いていくと、両側にいくつものアルコーヴがある。

「よかったら、私の家へ来て。一軒の家に、女性の友人と同居しているの」
なかば地下のような駐車場に入り、三津子は自分が自動車を停めた場所にむかった。
彼女の自動車はAMCのマタドールの4ドアだった。その隣りに、ぼくの車、オールズモービルのカトラス4ドアが停まっていた。

「こんな偶然は、やはりお祝いしなくてはいけないのよ」
癖のない英語で彼女はそう言い、ぼくを抱きよせた。相手を抱き寄せつつ、自分から相手に身をまかせる抱きかたのなかで、三津子は、控え目ではあるけれど、気持ちのこもった口づけをおこなってみせた。均等な情熱で、ぼくはその口づけに答えた。

彼女のマタドールが先をいき、そのあとをぼくがついていった。ショッピングセンターの敷地を出ると、ぼくは彼女の運転のしかたを観察した。ぼくが10年前の彼女の魅力のなかに感じていた、ふとしたときに見せるきわめて男まさりな、めりはりのきいたアクションを、マタドールの動きのなかに思い出した。

なかば地下のような駐車場に入り、三津子は自分が自動車を停めた場所にむかった。

「この家。じつは、私のものなのよ」
微笑して、三津子は言った。
家のなかを、彼女は案内してくれた。居間の外は下り坂のスロープになっていて、その上にラナイは張り出していた。雨の降る太平洋とホノルルの一部分とを、ぼくたちは遠くに見た。この雨は、冬の貿易風が降らせていた。

「変化のきっかけは、あなたよ。好きなアメリカに直接に触れたいと思っていた私は、あなたに英語を教えてもらったり、基地に連れていってもらったりして、あなたが紹介した先生をとおしてハワイに留学することになったのだから。いまは永住権があって、銀行に勤めているの。責任のある要職にあるのよ」

「ある夏の夜、明るいアメリカ映画を観たの。主演の女優さんが着ている服を姉たちは真似していた。絶対にアメリカへいく、と5歳の私は誓ったの」
「この島へ来たのは10年前でしょう。よかったわよ、ハワイらしさが残っていて。ダウンタウンの日系人街とか。必死に勉強して、いろんなことを吸収して」

雨の降る太平洋とホノルルの一部分とを、ぼくたちは遠くに見た。

三津子は、ぼくをシャーリーに紹介した。いまはこの島のTV局で夜のトーク・ショーのホステスを務めていて、来週はラス・ヴェガスへいく。ハワイの人たちはラス・ヴェガスが好きで、なぜそんなに大勢の人たちが砂漠のなかの人工的な町へ行くのかについて、取材してレポートするという。

「ハワイからくる人たちだけで商売の成り立っているホテルが、何軒もあるのよ。部屋代と3度の食事を含んだ一括の料金で、航空会社も参加して客のとりあいをやっているわ。ほとんどの人が3泊して、そのあいだギャンブル以外はなにもしないの」
シャーリーが席をはずすと、三津子は日本語に戻った。

ブックストアで、彼女は、昔のように、ぼくを昭彦ちゃんと呼んだ。いまは、ぼくをあなたと呼んでいる。ぼくもブックストアで、彼女をお姉さんと呼んだ。それはまちがいだと、いま気づいている。
キチンにむけて彼女が先に歩く。うしろ姿に
「三津子」
と、言ってみた。
彼女はふりかえった。そして、まっすぐに、ぼくを見た。

なぜ大勢のハワイの人たちが砂漠のなかの人工的な町へ行くのか、取材するという。

関連する投稿

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?