見出し画像

片岡義男『アロハ・シャツは嘆いた』

大学の構内を、ぼくはマーキュリーのマークゥイスを走らせていた。広い道路の右側の歩道を女性がひとり、むこうに歩いていた。ほどよい風が吹いていた。彼女の薄いドレスがさまざまにはためいた。ゆったりとした歩きかたには、見ていて心地よくなるリズムがあった。

対向車線を走り去る自動車を見送りつつ、彼女はふりかえった。ぼくは窓から右手を出し、振ってみせた。ドロシー・ミラー。妹のヘレンの先生のひとりだ。
「乗ってください。送ります」
ぼくは、うしろのドアを開いた。
「この車のなかで、お話をすることはできないかしら。カネオヘに到着するまで」

「どの道をとおりますか」
「ウィルスン・トンネルが好きなの」
「リケリケ・ハイウェイですね。63号線」
「私にとって、ウインドワード(風上の)・オアフとかトレード・ウインド(貿易風)は、魔法の言葉なの。中西部のまっただなかでハワイからのラジオ番組を聴きながら、どんな場所なのかと想像してたわ」

私にとってウインドワード(風上の)・オアフとかトレード・ウインド(貿易風)は、魔法の言葉なの。

「その番組は、1935年から1975年まで続いたのです。ぼくの父親は、よくその番組に出演していたのですよ。あの番組はライヴ番組で、地元のいろんな音楽家がたくさん出演できるような構成になってましたから、地元の音楽家の多くが、あの番組で失職をまぬがれてきたのでした」

「お父さんは、いまなにをしていらっしゃるの?」
「ヒロで、なかば引退ですね。ホテルに出演しているミュージシャンのディレクターをやっていますし、地元ではときどき演奏もしているようです。そして、古き良きハワイを演奏者の立場から回想した本を書いてます」
「ぜひとも読まなくてはいけないわ」

ドロシーは書類ケースのジパーを開いて、分厚くふくらんだファイル・フォルダーをひっぱり出した。
「アロハ・シャツに関する歴史的な資料は、すべてここにコピーしてあるわ」
彼女は、重そうなフォルダーをぼくの隣りの席に置いた。
「読み終えると、アロハ・シャツの歴史の専門家になれるのですね」

あの番組はライヴ番組で、地元のいろんな音楽家が出演できるような構成になってましたから、

「いま、アロハ・シャツは、コレクションの対象なのね」
「コレクターが訪ねてくるそうです。人まえで演奏した人ですから、アロハ・シャツは大事なものなのです」
「アラスカより先に州に昇格とみこして49番目の州という文句を印刷したアロハ・シャツが貴重品なのですって」

「父親は、それを持っていると言ってました」
「『地上より永遠に』という映画を知っているかしら。モンゴメリー・クリフトやフランク・シナトラ、バート・ランカスターがアロハ・シャツを着て登場するシーンがあって、クリフトが最後に撃たれて死ぬ場面で着ていたシャツがもっとも高値なのですって」

「あなたがアロハ・シャツのストーリーを書こうとしている、とヘレンは言っていたけれど」
「アロハ・シャツをハワイで最初に作ったのは、日本からきた移民のひとりというフィクションです」
「事実としてそういう部分もあるのよ。仕立て屋さんの技能を持っていた移民は、中国人と日本人だったから」

クリフトが最後に撃たれて死ぬ場面で着ていたシャツがもっとも高値なのですって

「どんなフィクションなのかしら」
「1922年、日本からハワイへ、若い夫婦が渡ってくる。日本での仕事は、仕立て屋さんで、奥さんの実家は、反物の問屋さん。日本から送られてきた派手な柄の生地で、自分の子供たちにシャツを作る。子供たちは学校へ着ていき、評判になる」

「ある日、ハワイ系の主婦が店へきて、うちの子供にもあのシャツを作ってと頼む。彼らはよろこんで作る。何日かたつとハワイ系のお父さんが店にきて、シャツを頼む。彼らは採寸して美しいシャツを作る。お父さんはよろこび、いつもそのシャツを着る。それをアメリカ本土から来た観光客が目にとめる」

「どこで売っているのか、と聞かれたお父さんは、店へ観光客を連れてくる。今度も採寸し見事なシャツを作る。2日後、その観光客は仲間を何人も店へ連れて来て、美しいシャツをあつらえさせる。なんというシャツなのかと客のひとりに聞かれて、奥さんはとっさに、アロハ・シャツです、と答えるのです」

なんというシャツなのかと聞かれて、奥さんはとっさに、アロハ・シャツです、と答える

「アロハ・シャツの原型は、北アメリカ大陸の開拓者たちが着ていたシャツですか」
「そうね。千マイルの旅にも耐える丈夫な千マイル・シャツと呼ばれていた、あのシャツでしょうね。ハワイ人にシャツは必要なかったけれど、白人の宣教師にシャツと半ズボンを着せられたのよ」

「彼らは白人宣教師たちから労働も強制され、その労働のためのユニフォームでもあったのね、シャツは。だから、アロハ・シャツの歴史は、ハワイの嘆きの歴史でもあるのよ。そのシャツに色がつき、模様がつき、街着になり、観光客のスーヴェニアとなって、デザイン的に洗練されつつ、流行していったの」

「日本の若い夫婦は、自分たちの作ったシャツに、なぜ、アロハ・シャツという名前をつけたの?」
6か月まえのある日、ぼくは1枚の写真を見ていた。ホノルル港に船で到着した日本からの移民たちが、港の沖にあるサンド・アイランドにむけて、木製の橋を歩いていくところをとらえた1890年代の写真だ。

ハワイ人にシャツは必要なかったけれど、白人の宣教師にシャツと半ズボンを着せられたのよ

橋の上を歩いている人たちを、ルーペで見ていった。荷物を肩にかついでいる若い男性は、気持ちの動きかたの明るい、意志の強そうな顔を持っていた。彼だ半蔵は、とぼくは思った。
彼のうしろに若い女性が歩いていた。唇を一文字に結び、真剣な表情をしていた。幸江は彼女だ。

船から港に降りたとき、地元の人たち大勢が彼らを迎えた。桟橋を歩いてくる日本の人たちに、
「アローハ」
と笑顔で声をかけた。
半蔵と幸江がハワイで最初に聞いた島の言葉はアローハだった。
「なんという意味だろうか」
「きっと挨拶の言葉でしょう。初対面で、誰もが口にするひと言なのですもの」

善意や好意など、人に対する肯定的な気持ちを表現できる、便利で重要なひと言がアローハなのだと、彼らは知っていく。彼らが人のために服を作るのは、人に対する肯定的な気持ちが土台となっている。だから、これはなんというシャツなのかときかれたとき、アロハ・シャツです、と言うことができたのだ。

荷物を肩にかついでいる若い男性は、気持ちの動き方の明るい、意志の強そうな顔を持っていた。

関連する投稿

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?