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【雑記】「現実を自給自足する」ということ

落合さんの研究室で助教をされていた島影さんの展覧会。落合さんが観覧されたらしく、noteで記事を書かれていた。

自分は展示を観覧できていないのだけれども、この「"現実"の自給自足」するという言葉に考えさせられた人間の一人である。作家さん(島影さん)の意図をくみ取れているかはわからない。でも、「自給自足」という、自分の手足で形作り、生きる力を摂取するような言葉に人の営みらしさを感じた。

自分は割と常にストレスとバトルしながら何かを生み出したい癖がある。自分の持てる分野の範囲の人々が「現実を自給自足できるように」何かを作ってあげようとする。サークル然り、会社然り、クリプト然り。
クリプトの世界で栽培しつつも、外からの目線は常に行き来できるように持っている。純然たる技術にときめくこともある一方で、プロコンが足りていないと思うことも多いし、単なるバズワードゲームに辟易することもある。その領域の根幹のエンジニアたちが自給自足できるような分野に育てばいいと悪戦苦闘している。
ことここ数年間は、そういった「自分の外」の人々が自給自足することで、自分も自給自足できる世界を目指していることが多い。
ただ、自分自身の現実を自給自足するのはあまり得意ではない。
自分のリソースを最大限外に注入して、「ここでもない」「ここか」「いやうまく通らない」「この角度か」と闘いっぱなしだ。
割と人間性を捧げてきたのでそれなりに型が出来てきたのだけれども、片や自分の現実はどうかと言えば、この激流と感染症禍の中で手ごたえのあるものが足りないと思っていた。手の技、人との繋がり。

そんな感染症禍で、今度はウクライナ問題だ。自分はバスクの文化調査をしていた経験から、国民国家・資本主義など人の手によって作られたシステムに人が踏みにじられてしまうことに大きな疑問を抱いていた。それがこのコロナ禍に世界規模で起こるのだから、完全にパニックである。"人は愚か"が過ぎていやしないか。
そんなことを思いつつ、今までは国というシステムに縛られることはないという考えでいたが、いざウクライナの女性たちが火炎瓶を作っている姿を見ると、いざ自分の国が同じ目にあったときに国の外に出ていられるかと改めて考えると、システム論でない感情からもしかしたら残ってしまうのではと思った。

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そんな中、今度は全く異なる角度で、所謂「推し」に吉報があった。とてもおめでたいことで、自分も前々から色々な感情を棚卸ししていたので、驚きもありつつも感謝の念を送るだけである。長らく現実を自給自足するための支えになってくれていた存在である。ただしそれは自分のゴーグルでしか見えない世界で、メタバースではないのだろう。

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ふと、この展示のタイトルを自身の中で反芻した。
もう少し自給自足、自身が栄養素を採るための営みに時間を注ぐ必要があるのかもしれないと思った。
正直何をするべきかも不確かだし、このペースだと今月も恐らくぎりぎりを生きることになる。

世界全部から純然たるものを見つけようとせず、何かを切り捨てながら自給自足しないと自分が持続的には生きられないのだという気がしてきた。結局今根ざしているバースにこの体で、自分の身体の範囲でバイブスを感じながら生きている。

この春には自給自足の地を探す旅に出てみたい。









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