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【雑記】物質性とノスタルジーと人の意地

電柱のある街並みが好きだ。配線の絡み具合の複雑さが心地いい。

錆びてペンキの禿げたフェンスから覗く風景が好きだ。

雑多としたネオン街が味わい深い。

どれも、「人の意地」・営みが感じられるものだと思う。これはデジタルが普及した社会ではノスタルジーも具備している。

経年劣化の感じないUI(プログラムやデザインに時代性はあるものの、ドット毎に錆びはしない)、色褪せない画像、スマホやPCは常に新しい製品が手元にある。再開発が行われ、真っ白な歩道にガラス張りのオフィスビルにビビッドな看板が並べられた街並みの再生産。

それではデジタルで構成されたものは人の意地が感じられないかというとそんなことはない。3Dを作るにも、データセットを作るにも、人の美学や視座、研究室やオフィスで寝泊まりしながら作り上げた意地もあるかもしれない。成果物が綺麗にまとまっているから血と汗と涙が伝わりにくいだけだ。

この、綺麗にまとまっているが故に伝わりにくい感覚が最近課題感としてある。

ビジネスにおいても、一義的に研究開発社会実装をしている人の意地があり、それを伝えやすくする行為が挟まれる。この「伝えやすく」の部分が誤解され、希釈され、一義的な人の意地が伝わりにくい状況を感じている。成功モデルが少ないのもあるだろう。成功モデルになっている人の視座を共有する必要があるのだろうか。インターネットの黎明期、スケールにはどのような過程があったのだろうか気になっている。

それとステークホルダーの価値が完成してしまっている感覚。ジャンプしないといけない。海外の法規制との差で生まれているものをフィードバックしないといけない。

わかりやすく希釈するべきか、一義的な人の意地を鮮度そのままに伝え問いを持ち帰ってもらうべきか。どちらも大切なのだろうか。分からなくても「何か見えている」と感じることはあると思う。毛利先生の「で?君には何が見えているんだい?」や石井先生の「君のレゾンデートルはなんだい?」という問いに通じるもの。自分のように、東さんの話を聞いて「この人全然何言っているかわからねえ…でもこの人何か楽しいものが見えている…楽しそうだ…」という感覚に共振して自分で学習を掘り下げることもある。単に自分が自分に見えていない世界観に触れるのが面白いと思うだけかもしれないけど。ふわっとした話でそこにどう響かせるか。本気度はあるか、意地はあるか、熱は乗っているか。betしてみようと思わせられるか。

コロナ下の中国のライブコマース、これも人の意地が乗ったもの。ちょっとハイコンテクスト…



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