見出し画像

# 53 悩める人間

以前にも記載したのだが、若い頃、神を信じるのか否かと問われて、信じないを選択した。サルトルなどの無神論は受け入れやすかった。
今回、同じ質問を受けた場合、どう答えるのか、自分でもよくわからない。
漸進法で進めてゆく。

1。サルトルは実存は本質に先立つとのべた。難しく感じるのだが、本質は目的と言い換えられるようだ。神はいない=私たちは神に作られたので無い=私たちは目的のために作られたのではない。すなわち実存は本質に先立つと言う論理であり、無神論者には受け入れやすい。
しかし彼は自身のための目的(本質)を選択、創造しなくてはならない、そのことには100%自己が責任を持たなくてはならない、すなわち「責任ある自由」を主張した。
2。その責任ある自由という部分は受け入れがたい。主張するのは勝手であるが、まるで悲観論ではないか!
3。自分を創造できることに注目すべきだ。自由に選択できるのであり、悲観論ではない。自分の行動が他人に影響することに責任を持てと言うことだ。
4。バカなことを言うな!いちいち他人に与えるインパクトを考え、責任を取るとしたらいくら命があっても足りない。要するに何もしてはいけないという悲観論そのものではないか。
5。違う、彼の意を受けて、保守的な政府を打倒する政治のうねりを若者にもたらした。実に行動的であり、若者はフランスがもっと自由を獲得できると信じたのである。むしろ楽観論なのだ。
6。しかし、その政治活動のうねりは続かなかった。
一方で、人間の本質と目的を同一視する考えは暴走だ。目的を持たないことは実存しないことなのか?
以前、有名大学の留学生と話した時、他の大学生を見下して、「何も考えない人間の姿をした動物だ」と言っていたのを思い出す。ひどい言い方と思ったのだが、これは彼の考えに近いのではないだろうか。一部の優秀な方々だけに通用するような考えでは無いのか。エリートには受け入れられるのだろうが、世界には目的を持てない多くの人々がいるのである。
7。問題点は分かるのだが、観点を変えたい。
神はいない、だから人間は神に作られたものではないと言う論理に飛躍があるのでは無いだろうか。そこから演繹される人間は自分中心に世界が回っている天動説であり、だから、自分の引力の及ぶところには責任を持つべきだという話となる。ソクラテスは無知の知を唱えたのだが、そこには地動説的であるし、神を信じた場合も人間は謙虚になれる。人間はサルトルが主張するほど能力のあるものでもないし、自分の行動が世界に影響するなどと言うのは驕りである。
8。いやそうではない。世界の独裁者に万一、精神的な異常が起きて、核のボタンを押すことを考えて見よう、責任を持てと言う言葉は現実味を帯びる。マッカーサーですら膠着し、苦境に立った朝鮮戦争では原爆を投下するように主張した。しかし、トルーマン大統領はそれを拒否した。責任ある自由は重い意味があるのだ。
9。責任ある自由は机上の空論だ。核のボタンを押すことが正義であり、結果に責任を持てると信じ込んだら、押しても良いと言う理論づけにもなりはしないか!独裁者は独善的な傾向がある。
10。いずれにしても、神が、いない、いる、と言う論争が人間の運命の分かれ道になりそうだ。神が居ないと考えると人間が神になると言う様な不思議な流れになる。神は側に姿を隠しているのかもしれない。しかしそれを自分に重ねるのは独裁者の末路であり、誤りである。
11。神が居ないと道徳も危うくなると言うのは近代哲学の流れからは逸脱している。カントは「頻繁に、そして長く熟考すればするほどに、ますます新たな驚きと畏敬の念をもって心を満たす二つのものがある。それは、我が頭上の星を散りばめた天空と、我が内なる道徳法則である」(カント「実践理性批判」より)。すなわち人間は内なる道徳法則に従い、核のボタンは押さない。トルーマンは反省から、マッカーサーを左遷したのである。ベトナム戦争でも核の使用の瀬戸際まで達したのだが、それは回避された。内なる道徳法則は核使用を許さないのだ。サルトルの「責任ある自由」はカントの「内なる道徳法則」を拠り所としていると推測する。神が核のボタンを押すことを躊躇わせているのではなくて、人間の内なる道徳法則が押させないのだ。
12。いや、神が押させないのだ。

哲学者は抽象的に考え、私は具体的な考えに偏るので、その辺も噛み合わないのかも知れません。色々、ややこしく、難しく考えたが、結論に至りませんでした。

映画オッペンハイマーを見にゆかなくてはと思いつつ、出不精が祟ってか、見ていません。











この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?