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ゴリラからの警告「人間社会、ここがおかしい」 (読書記録)

図書館で目にとまったとある本。
開いてみるとこんな言葉が…

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どういうこと?!
ゴリラに向けてのメッセージ??
そんなわけはないか… 笑

人間が人間を超えるとはどういうことだろう?
はてながたくさん浮かぶ言葉がそこにはあった。

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 私はゴリラの国へ留学してきた。いつもそう言っている。まさか、と笑う人もいるが、私は本気でそう思っている。
 それは、私たち日本の霊長類学者の調査方法による。創始者の今西錦司は、「サルになり代わって、彼らの社会や歴史を記録せよ」と言って、学生を野生のサルたちが暮らす野原へ送りだした。サルの群れのなかへ入りこみ、自らがサルになって彼らの社会の仕組みを理解することを目指したのである。

どうやらニホンザルの作法を会得したと感じるようになったころ、アフリカの熱帯雨林でゴリラの調査をすることになった。しかし、ゴリラはニホンザルとは全く異なる霊長類だった。ゴリラのなかに私はサルではなく、ヒトを見た。出会ったとたん、私はゴリラに魅了され、心底彼らの仲間になってみたいと思った。

私はゴリラに叱られながら、彼らの国のマナーを学んだのである。

(はじめにより一部抜粋)

ゴリラに魅せられゴリラの目線で見た著者が感じた現代の人間社会。
読んでいて気になったところを抜き出しながら振り返ってみようと思う。

家族の崩壊は自己の喪失

 供食と音楽は、言葉が登場する以前から人間に備わった、類人猿にはほとんど見られない特徴である。これらのコミニュケーションによって発達したのが、他社を思いやる心の動きだ。音楽には、お母さんと赤ちゃんのように一体化して、世界を共有させる働きがある。それを人間は言葉によって高めた。自分が体験していないことを言葉によって他者と分かち合い、多くの人と交流できるようになった。

歴史の映画を見ていると戦いが始まるときには昔から音が使われていることがよくわかる。
太鼓の勇ましい音や笛の音など、それらは始まりの合図でもあり気持ちを奮い立たせ一致団結するためのものでもあるのだろう。
掛け声も一緒に声を合わせているだけで不思議と気持ちも高揚していき一体となる。

楽しいときも悲しみにくれるときもそこには楽器があり音楽がある。
音にはさまざまな効果がある。
楽しさを演出することや気持ちを奮い立たせること、気持ちを静めることや癒すためにも用いられる。
ライブで一体感を感じるのは気持ちを共有できたと感じるからなのだろう。

著者は今、その共感を人間は失おうとしているのではと危惧している。
コミニュケーションの方法が変化し、この方法では自己を重んじ、自分を中心に他者とつき合う傾向が肥大しつつあり、逆説的にそのことで人間としての自分を失うことに通じるからだそうだ。

なぜなら、人間は自分で自分を定義できず、信頼できる人たちの期待によって自分をつくる必要があるからだ。その信頼の輪が家族と共同体だったのだ。家族の崩壊は自己アイデンティティの危機なのである。

ハッとさせられる重みのある言葉だった。


老人は生きづらい世の救世主

 昔、屋久島で野生のニホンザルを調査しはじめたとき、一つの群れが分裂して二つの群れができた。遊動域がいっしょだから、よく分派群が衝突し、いがみ合いになった。そんなとき、ポッシーと名づけた老メスが不思議な行動をとった。ゴッゴッと威嚇音を出してにらみ合うオスたちのまえをひょうひょうと通り過ぎて、群れの間を渡り歩いたのだ。まるで、敵対する現場など目に入らないかのように落ち着いて葉っぱを食べはじめた。それを見て、サルたちもあっけにとられたように戦いを止めた。

どちらの群れにも姿を現すポッシーはいがみ合いとは別の世界にいる。
同じようなことが、ゴリラの世界にもはっきりと認めることができたそうだ。

老人たちはただ存在することで、目的的な強い束縛から人間を救ってきたのではないだろうか。

寿命が伸びていく世界で、ただ存在するだけで誰かの張り詰めた気持ちが和らぐのなら、生きることにも意味があり希望も持てるかもしれない…そんなふうに思った。


人間以外のサル真似はできない

 人間はつくづくおせっかいな動物だと思う。相手が困ってもいないのに忠告をしたり、手をさしのべたりする。相手が気づいていないことをわざわざ伝え、必要以上の物を用意してあたえる。その典型的な行為が教育である。
 人間以外の動物は、たとえ相手が自分の子どもであっても教えたり訓練したりすることはめったにない。唯一、教える行為が知られているのは猛禽類や肉食類だ。

どうやら動物の世界では、何かを教えるということは自分が損をするということらしい。

ではなぜ人間は親子関係でもない者に教えようとするのか?

それは人間が他者のなかに自分を見ようとする気持ちや、目標をもって歩もうとする性質をもっているからだと著者は考えた。
そして、そうすることで動物の親子のような信頼関係が見ず知らずの他人との間にもつくることができるらしい。

 人間の子どもがゴリラの子どもと違うのは、だれかのようになりたい、未知のことを知りたいという強い欲求をもっていることだ。その望みをかなえるには憧れの人に会うこと、その知識や経験をもつ人に聞くことが一番である。これまでの子どもたちはみんなそうして大人になった。おとなは子どもが知らない知識をもっているからこそ、子どもたちに信頼され、教育することができた。

5年生の長男が3年生だったとき、YOUTUBEで知った情報を自分の体験かのように話していてぞっとしたのを思い出す。
欲しい情報や物が手軽に手に入る時代、そんな便利さと引き換えにわたしたちは、あのいてもたってもいられない気持ちやワクワク感を手放したのかもしれない。

 現代は、知識そのものではなく、実践する力や考える力を教える時代であると私は思う。過剰な情報はむしろ人々から想像する力を奪う。人間の身体を使って何ができるか、どんな発想の展開が可能か、それを知るには人と出会い、実践の場に参加しなければならない。サル真似はむしろ学びの基本である。人と関わりをもちながら、他者のなかに自分を見つける楽しさを知ってほしい。そこに新しい時代の信頼と学びの場が開かれるのではないだろうか。

想像すること、工夫すること、体験すること…これらはとても楽しいことだ。
想像することで世界が広がっていく。
ちいさなひらめきがポンッと生まれ、それを実行するために思いをめぐらす。
たしかにそれらを楽しめているときは、ネット環境にどっぷり浸っていないときである。

こんな楽しいことが難しい体験になるということがわたしには想像ができない。
けれど、学び方や信頼関係の築き方は変化してきているのを感じる。
必要な情報を選びとり整理すること、そこから自分が使いやすいように練りあげること、体験を通して形創っていくこと、体験することで見えてきた歪さと向き合うこと…そんなことが重要視されていくのかもしれない。

自分はあほだから考えても分からないんだなと思っていたし、だから「やってから考える」という方法しか知らなかった。
だからそんなふうにやってきた。
考えすぎて行動できない人がいると知ったとき、その人がなぜ行動できないのかよくわからなかった。

他者のなかに自分を見つける。
他者を知ってはじめて自分を知ることができる。
他者は自分を映し出す鏡であり、「自分」という存在を教えてくれるありがたい存在でもある。



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