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こぽぽ水中に見出す表現論(2756字)

先日、ロングコートダディの単独「こぽぽ水中」の配信を見ました。とても面白かったし、メッセージ性もあってロコディらしさたっぷりな内容だったなと思います。一方で、好きだな、凄いなと思う点と、ちょっと思ってたのと違うな、という点がいずれもありました。それによって、私がコントに求めているものが浮き彫りにされたようにも思いました。今回はその覚え書きです。
この先、ある程度のネタバレを含みます。



“分かりやすさ”と“理解力”

コントの世界に引き込みながら、自然に状況や心情の変化を伝えるというのはとても難しいことだと思います。ある種漫才にはないコントならではの観点であるし、演劇の要素とも言えます。観客側にどのくらい理解を委ねるかというのも、書き手や演じ手の悩むところです。理解が難しすぎる表現や遠回しすぎる表現は”ポカン”としてしまう。かといってド直球な表現は場合によっては観客側の想像の余地を無くし、単調なストーリーに回帰してしまう。この中庸というのが難しいのです。

死の言語的直接表現

中庸が難しいというのは、特に言語的表現、セリフの書き方に言えると思います。今回のこぽぽ水中を見ていて、死にまつわるストーリーの流れ方が印象に残りました。それもそのはず、複数回「死ぬ」「死にたい」といった言い回しがあったからです。さらに、ラストの長尺では鉄砲もキーワードのひとつであり、こめかみに突きつけた後暗転に発砲音、という演出もありました。ロコディがこの単独にどのくらい強い「死」のエッセンスを含めたかったのかは分かりませんが、個人的には「強すぎて弱い」ように感じてしまったのです。一般的に死に関するエピソード展開は目を引き、想像を膨らませやすいように思います。だからこそオブラートに包み、観客に連想させることで深みを生めると私は考えています。そういう意味で、私が求めている生死の表現は綺麗な婉曲表現なのだろうな、と思いました。

この点に関して、男ブラの単独「やってみたいことがあるのだけれど」では、”おばけ”という文字面通りに柔らかく男ブラらしい雰囲気の中に死や命、人と人の繋がりなどのニュアンスも孕んでいました。特に「おっちゃん」のコントでは、浦井さん演じるせいちゃん(おばけ)が自身の正体をカミングアウトしますが、その際”死”という言葉は一度も用いられません。亡くなってしまった原因や亡くなった時期などはこちらの想像に委ね、「ほなな。」という穏やかな去り言葉にその人柄や二人の関係を滲ませます。やはり平井さんの書く婉曲性のある言葉に魅力を感じている面も多いのだろうと再認識しました。そういえばラの演出も婉曲の美を大事にしていた気がする。似ていると感じる要因はいろんなところに散りばめられているんだろうなぁ。

ただどちらが良い悪いという話ではなく、自分の一好みを理解したに過ぎないので、どちらの魅力も分かり得るところのものであるというのは忘れないでおきたい。

小道具の使い方

小道具や舞台セット、衣装の扱い方は分かりやすく個性が見て取れるので面白いポイントでもあります。ラを尊敬する者として、やはりコンパクトさや無駄のなさ、”見えないものが見える”演出は大好物です。その一方で、小道具があるからこそ映える表現もたくさんあるということを感じました。例えば長尺最後の鉄砲を突きつけるシーン。エアーでも状況は理解できますが、照明に照らされてギラッと光る銃身や、銃口とこめかみの距離を視認することで一気に緊迫感が増すように思いました。他にもマックスの被り物など表現上重要な小道具もあると感じました。これはコントの作る手順や優先する事柄にも関係しそうです。”最終的な舞台上での見え方・見せ方→必要となる脚本”なのか、”脚本→必要となる見せ方”なのか、でだいぶ変わってきそうです。私目線では、今作は後者っぽかったと思います。それこそ前者は劇作みがありますね。

幕間の演出

コントは漫才と違って準備がある程度必要なので、単独において幕間をどう持たせるかというのは誰しも悩むところなんじゃないかと思います。たしか賢太郎さんのnoteでも、幕間について語られている話があった気がします。今回はVTRを挟むスタイルでした。恐らくそれが一般的なのかな。本編から興味が離れすぎず、退屈せずな丁度いいVって難しいですね。

"幕間もショーにする"考え方を私はかっこいいと思っています。「準備があるのでしばしお待ちください」の時間が公演時間内に計30分ぐらいあるというのは勿体ない、準備中を感じさせないようにしたい。その点で言うと、舞台セットや衣装、ヘアセットが少なければ少ないほど幕間は減らせます。そういうスムースさもかっこいいんですよね。また、減らすという視点に限らず、”見せる”幕間も素敵です。やてみたしかり、男ブラのそういうこだわりにはいつも唸ります。

当て書き力と憑依力

当て書きは"演じる"コントならでは。よりキャラクターが活きる台本は作家の観察力がものを言います。それでいて、演じ手がその役に憑依する力も強く完成度に響きます。それが上手く噛み合う作品こそ"伝わる"作品になるのでしょう。ロコディの良さがちゃんと出ているというのはこの面で1番感じました。ネタ書きと演者がはっきり分かれているからこそ、ポジショニングが明確でハマります。構図的には男ブラやラも似てる。生み出す方向性のぶつかりがないというのは重要なのかもしれません。堂前さんのシナリオの良さはもちろんのこと、兎さんの演技の秀逸さにも気づかされました。考えて組み立てて作った役というよりも、するっと内から出てきた人格のように演じている感があります。そのとても不思議な魅力は天性のものなのでしょうか。

賢太郎さんは、自称されるところによれば、何度も何度も努力して練習して、客席からは一切その積み重ねた失敗が見えないようにして舞台に立っていたとのこと。才能と努力について語られていたときの話です。だから、「そんなに凄い自然な演技、才能があるからでしょ」と思われるのはむしろ努力家のミッキーマウスであり、努力の天才なのかもしれません。果たして兎さんがどのタイプかは知り得ませんが、なんにせよコント師・演者としてすごい力を持ってらっしゃるなと思います。

さいごに

随所で男ブラが~ラが~賢太郎さんが~…と挟んでしまいましたが、やはり贔屓にしているのだと自分でも思いました。ロコディも好きなんですがね。特別男ブラとラが好きだからこそ、それ以外の芸人さんの単独をいろいろ見ていって表現論や嗜好性の自己分析に繋げていきたいなと思うところです。私ももっと面白いコント書けるようになりたい!精進!因みに芸人になる予定はありません!

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