曹操の生い立ちと若きエリート時代

前回は三国志を知る上でのバックグラウンド「三国志の原点!後漢末期の時代背景」についてまとめました。

外戚と宦官による抗争の結果、宦官の思うがままに操られる若き皇帝、そして党錮の禁による清流派士人の弾圧、終いには国の混乱と衰退に繋がってしまいました。

今回は三国志の英雄の一人、曹操の生い立ちや歴史を切り拓いた若かりしエリート時代に注目していきます。

曹操の家系

曹操は前漢初期に宰相(総理大臣)を務めた曹参の子孫にあたります。

曹操の祖父にあたる曹騰は4人の皇帝に仕え、宦官の最高位である大長秋にまで昇進した宦官の中の宦官です。後漢第8代皇帝となる順帝が皇太子の時に学友として抜擢され、順帝が即位すると曹騰への信頼は絶対的なものとなり、曹騰も昇進を重ねて功績を残しました。

順帝は、当時権力を振るっていた外戚を宦官が排除して皇帝に即位した為、宦官を重視しました。その為、良くも悪くも宦官が力を持ち出したのは順帝が始まりとなります。順帝は子孫を残せない宦官に養子を認めるなど手厚い制度を作りました。

これにより曹操は宦官の孫として世に出ることになります。曹操の父曹嵩も莫大な金で官位を買収した政治家です。
曹騰も曹嵩も貧しい家の出だったために宦官側に回らざるを得なかった者たちなので、曹騰は養子の曹嵩を想って宦官に口利きをし、曹嵩は曹操を想って一億銭の大金を払って官職を買うという行為をしたのだと考えられます。

曹操の生い立ち

曹操の祖父は大宦官、父は金で官位を買って出世した政治家という曹家は濁流派の筆頭と言って良いでしょう。そんな家系に生まれた曹操は「宦官の孫」と揶揄され、後ろ指を指されていました。

曹操は幼い頃から武芸、書物(特に兵書)に通じて機知に富んでいたのですが、本来子供を作れない宦官の孫という複雑な家柄ということもあってか不良少年でした。

青年時代に繋がりのあった重要人物

1. 張邈
張邈は名士であった(漢の八厨の一人)為、曹操は袁紹や何顒、許攸などと交わりを持つことができたのも張邈のお陰。世に出るためには人脈が重要であるということが分かります。曹操のようなエリートでも世間に知られなければその能力も発揮できません。張邈や何顒のように能力を認めてくれる人物ができたということが非常に大きいです。

2. 袁紹
袁術と同じく四世三公で名高い名門・袁家の御曹司。
張邈の紹介で曹操と知り合う。以後も兄弟のように親交を持ち、最終的には天下を分けるライバルとなる人物。

宦官の孫である曹操にとって、名家の袁紹と繋がりを持つことができたのは大きなターニングポイントとなりました。袁紹を慕って集まる士人らを抱き込むことが曹操の狙いだったのです。

では逆に、なぜ名門の若君である袁紹が宦官の孫である曹操と関係を持ったのか?単に曹操が魅力ある人物だったからではないであろう。
袁紹も曹操と同じく家柄的に微妙な立ち位置であった為、若い頃から苦悩してきた人物
だからです。袁家については後ほどまとめます。

人物鑑定で名声広まる

宦官の孫な挙句に不良だったため周囲からの評判は良くなかったのですが、人物鑑定で名高い橋玄や許劭は曹操に会うとベタ褒めし、「妻子を君に頼みたい」や「治世の能臣、乱世の奸雄(平和な世の中では優秀な役人、乱れた世の中では悪知恵が働く英雄)」と評価しました。これによって曹操の噂は広く知れ渡るようになりました。

洛陽北部都尉で輝く

曹操は二十歳の時に孝廉に推挙され(地元の偉い人に中央の役人に推薦されたという意味)、郎(朝廷の下級役人)を経て洛陽北部都尉(当時朝廷のあった洛陽の北部地区の警察署長)に就任します。

自分を嫌う者も多い朝廷を離れ、洛陽北部都尉となり地区のリーダーとなった曹操は早速手腕を発揮します。法令を厳しく取り締まり、破った者は身分構わず棒叩きの刑に処し治安を整えました

当時、霊帝に寵愛されていた宦官の蹇碩の叔父が禁止されていた夜間通行令を犯した際、曹操は皇帝お気に入りの宦官の叔父を躊躇わずに処刑します。これには民衆もスタンディングオベーション。洛陽北部地区の治安維持はもちろん、曹操の名声は益々高まりました。

曹操にとって父や祖父が朝廷で活躍している中、宦官の叔父を処刑し、蹇碩の面子を潰したことは複雑だったかも知れません。しかし、きっと曹操は宦官の孫と揶揄され続け苦悩した答えとして、宦官の後ろ盾を捨てて自分自身の道を切り開いて行きたかったと考えられます。

ところで、蹇碩も黙ってはいません。曹操を洛陽から遠ざけるためにあえて昇進させて頓丘の令(県知事)とします。

上奏するが効き目はないままに

26歳の時に議郎(官僚の中でも博識な者が就く役職)として中央(洛陽)に戻ってきます。議郎となり皇帝に助言できる立場となった曹操は、二度上奏します。

一度目は党錮の禁の批判です。つまり、「清廉潔白な人が排除されて悪い奴ばかり朝廷に蔓延っている」と訴えました。曹操は宦官の孫ですが宦官を憎きとする(清流派)士人たちの肩を持ったのです。これにより、世の多くの士人は「まさに英雄だ!」と称賛しました。

二度目は政治の浄化について直訴します。これは皇帝から意見を求められたもので、皇帝も曹操の意見に耳を傾けて政治を立て直そうとしましたが効果はなく、犠牲者が増えるばかりでした。

正義だけでは世の中は変えられない

このように曹操は上奏して正論を述べても宦官などにねじ伏せられたりし、正義心だけでは悪を排除できないと悟ります。曹操は、今は派閥争いなどには加担せず、自分の身を大切にして時が来るのを待つことにします。

今後の展望と曹操のプロジェクト

三国志を題材とする漫画やゲームでは黄巾の乱から始まるので、若かりし頃の曹操の活躍や下積みがあまり知られていません。無官でありながらも袁紹らのグループに入り人脈を広げて着実に名声を上げていった下積みがあります。「袁紹と遊び呆けいていた」という不良話で片付けてられてしまうことが多いですが、フラフラしていたことが曹操や袁紹にとってはとても重要だったのです。

曹操は持ち前の武芸や機知に富んだ才覚を名高い人物から高い評価を受け、20代ではすでに役人として朝廷に仕えて素晴らしい成果を叩き出し、名実ともに世に知られるようになりました。

恐らく曹操は官職に就く前から人生をかけたプロジェクト「漢室の再生」を抱き続けてきたことでしょう。曹操が目指していたのはシンプルに漢室の再生なのです。しかし、朝廷を取り巻く外戚や宦官、士人といったブレーンをどう対処するか?そこが曹操にしかできない重要なポイントになっていきます。

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諏訪亮祐

三国志の主役である曹操が切り拓いた三国志の世界や曹操の偉大なる実績をお届けしています。三国志は高校の時に没頭し、後の人生の大きな糧になりました。また、松井秀喜氏についてもまとめています。好きな作家はドストエフスキー

三国志で人生学んだ

学生時代、私は三国志のゲームに夢中になっていました。振り返ってみると、三国志で学んだことは数多く、全ては三国志から学んだと言っても過言ではありません。成功した英雄、そうでない者、全ての人物から学ぶことがあった気がします。自分が読書を始めたのも三国志がきっかけです。ここでは、...
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