【松井秀喜】命かけた闘いの始まり

 2002年、松井秀喜は後半戦だけで32本という爆発的なペースでシーズン50本塁打を記録。野球ファンのみならず、日本国民の関心を呼んだ。

 日本時代最後となった50号アーチはプロ入り第1号を放った時と同じ東京ドームで放たれた。それも本拠地最終戦、最終打席。

 投手は全球ストレートの真っ向勝負。150キロを超えるストレートで、まさに力と力のぶつかり合い。そんな状況下、解説者も「ホームランは難しい」と言った直後、松井は不可能を可能に変えた。

 松井はその試合の第一打席に49号を放っていた。タイトルや数字には関心を持たずチームの勝利のことだけを考え、その為に自分がすべきことを最優先する松井だが、その時ばかりは「50号を打てるなら多くの巨人ファンが詰め寄せる東京ドームで打ちたい」と思っていたかも知れない。

 そんなストーリー性に富んだ50号ホームランは観る人の魂を震わせる特別なホームランであった。まるで10年間育ったジャイアンツ、そしてファンに恩返しをするかのように-

 チームは日本シリーズに進出。4連勝のストレートで日本一に輝き、2002年シーズンの幕が閉じられた。

 一方、松井秀喜の闘いは終わりではなかった。むしろ、これから大きな試練が始まろうとしていた。

 FA権を取得した松井はメジャーリーグに挑戦することを表明。予々騒がれていたメジャー行きも、遂に正式なものとなった。

苦渋の決断がよりファンを魅了する

 巨人が西武を下して日本一となってから間もない11月1日、松井はFAでアメリカへ渡ることを発表した。
 大抵、メジャーリーグ挑戦の会見は晴れ晴れしい雰囲気となるはずだが、松井の会見は謝罪会見のようだった。
 表情一つとっても、普段のユニフォーム姿から感じられる松井とは異なった。大きな決断ということもあって顔はこわばり、痩せたようにも見受けられた。恐らく、朝まで考え苦しんでいたのだろう。

会見で印象的だった言葉は、

メジャーでプレーすることは自分のわがまま
ジャイアンツファンの皆さんには本当に申し訳ない気持ちでいっぱい
決断した以上は命をかけて頑張りたい
今は何を言っても裏切り者と思われるかも知れませんが

松井秀喜という野球選手がどれだけファンを大切にしていたか、この会見だけでも十分に知ることができる。

松井はチーム、チームメイト、ファン、そして国民に謝ってアメリカへと渡ったのである。

なぜ、松井は謝ったのか?

普通ならば疑問に思うだろう。

2000年シーズン以降、全試合4番で出場し、巨人の4番としてはもちろん、球界の4番として誰もが認める存在となった。松井は自分の置かれた立場を俯瞰し、その使命や責任を重く感じていた。だから、”謝罪”のような会見を開いたのだと思う。

2002年に50本のホームランをマークし、誰もが完成されつつあることを見て知れた。そして、いずれは王貞治氏の持つ1シーズン55本を超えるのではないかと期待していた矢先でのメジャー挑戦にはファンもガッカリしただろう。

松井はその気持ちまで汲み取ったのだ。

そんな慎しみ深さを兼ねそろえた人間性に多くの人々は魅了された。

この記事が気に入ったら、サポートをしてみませんか?気軽にクリエイターを支援できます。

1

諏訪亮祐

三国志の主役である曹操が切り拓いた三国志の世界や曹操の偉大なる実績をお届けしています。三国志は高校の時に没頭し、後の人生の大きな糧になりました。また、松井秀喜氏についてもまとめています。好きな作家はドストエフスキー

色褪せない背番号55の記憶

元メジャーリーガー松井秀喜氏の野球人生で最も魅了されたヤンキース時代にスポットを当て、後世に語り継がれる松井秀喜氏の偉大さに迫ります。
コメントを投稿するには、 ログイン または 会員登録 をする必要があります。