曹操と袁紹の明暗は洛陽で分かれた

三国志の始まりとなる群雄割拠を招いたのは袁紹であり、霊帝の世継ぎ問題をはじめとする後漢末期の権力争いの発端は何皇后です。この二人と大将軍何進が後漢衰退を早めた張本人と言えるでしょう。この後に登場し朝廷を牛耳る董卓以前に問題は深刻でした。

まずは前回詳細を解説できなかった何皇后から紹介していきます。

後宮のみならず朝廷をも操ろうとした何皇后

何皇后は(賄賂で)町娘から後宮に入り皇后にまで登り詰めたシンデレラガール。しかし、その中身は毒女そのものでした。

皇帝が寵愛していた王美人との間に子(劉協、後漢最後の皇帝となる献帝)が生まれると何皇后は嫉妬して王美人を毒殺してしまいます。さすがの皇帝陛下もブチ切れましたが宦官らは何皇后を庇いました。この一件が後に何皇后と宦官が手を組む要因になります。

何皇后の目的は、霊帝崩御の後、自分の子である劉弁を皇帝に立て、幼い皇帝に代わって自らが摂政となり朝廷を操ることです。霊帝自身も気付いていた為、霊帝は劉協を推していました。しかし、形として遺言を残さなかったことや劉協よりも劉弁の方が年上であったことから霊帝崩御後は劉弁が皇帝(少帝)に即位し、何皇后は念願の夢を叶えることになります。

袁紹、何皇太后を脅し戦乱を招く

一方、何皇太后の兄で大将軍である何進は、宦官を庇う妹の何皇太后と宦官一掃を訴える腹心の袁紹との板挟みになっていて事態を決めかねていました。ここにも複雑なしがらみがあるのですが省略します。

結果として、何進は袁紹の「董卓をはじめとする各地の将軍を都に呼び寄せ圧力をかけて皇太后を脅し、宦官を差し出させる」という意見に賛同します。

それでも何進は妹である何皇太后と直接会って理解を得たかったのでしょう。何進は一人で宮中に乗り込むという軽率な行動に出たところ宦官に殺されてしまいます。先頃、蹇碩の企みで暗殺されそうになったばかりなのに愚か過ぎる。

何進の戻りが遅いため何かあったに違いないと判断した袁紹は袁術とともに門を破壊し、宮中に攻め入り宦官皆殺しを図ります。結果として洛陽は火の海、血の海と化しました。

袁紹はこれまで大将軍何進の腹心として動いてきましたが、胸の内では「商人上がりの分際で大将軍まで登り詰めることができたのは我々が味方していたからだ」と強く叫んだことでしょう。宦官一掃はもちろん、何進が殺されることは袁紹が望んでいた結末といえます。

城内に兵が一斉になだれ込んだので一部の宦官は何皇太后、少帝、劉協を連れて都を脱出。幾多の武将らが少帝・劉協らを救うべく追いかけます。宦官らは畏れのあまり黄河に身を投じました。そして、逃走中の少帝らを董卓が救出したことにより事件は収束します。そして、董卓が政権を牛耳る時代がやって来るのです。

曹操と袁紹、二人を分けた明暗

この事件がきっかけとなって次の時代の中心人物となる袁紹と曹操の明暗を大きく分けたといってもいいでしょう。

今回の宦官一掃問題については、強硬派の袁紹は都に火を放ち、董卓を招き入れてしまったという結果は非難されるべきですが、穏便派の曹操の意見に従っていれば問題が解決したわけではありません。しかし、仮に袁紹の行動が成功しても袁紹が次の時代を築けたかというと疑念を抱きます
つまり、曹操は間違っていなかったということが結果を見ずとも証明できます。

袁紹の行動には止むを得ない部分もありますが、宦官を排除して自らが皇帝を守ろうと企んでいたこと、そして無残にも西涼の精鋭を揃える董卓軍を招いただけでなく、手柄を董卓に奪われてしまったことは身から出た錆とも言えます。

上記の行動は董卓も察知したため袁紹を煙たがり、袁紹は董卓の横暴さに真正面から反対する態度を示して洛陽から脱走。董卓と袁紹の対立だけでなく、曹操と袁紹の関係にも大きな影響を与えることになりました。

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諏訪亮祐

三国志の主役である曹操が切り拓いた三国志の世界や曹操の偉大なる実績をお届けしています。三国志は高校の時に没頭し、後の人生の大きな糧になりました。また、松井秀喜氏についてもまとめています。好きな作家はドストエフスキー

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学生時代、私は三国志のゲームに夢中になっていました。振り返ってみると、三国志で学んだことは数多く、全ては三国志から学んだと言っても過言ではありません。成功した英雄、そうでない者、全ての人物から学ぶことがあった気がします。自分が読書を始めたのも三国志がきっかけです。ここでは、...
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