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本当の友達とは、〇〇してくれる人

私は友達が少ない方だと思う。
なんでも相談できるような親友は、夫を除いて2人。
年に数回会うような、そこそこ親しい友人は2人。それだけだ。

学生時代には、そこそこ友人が多い方だったと思う。
小学生の頃には、クラスメートのだれと修学旅行で同じ班になってもいいくらいには、みんなと友達だった。

それでも、今は友達といえる人は数人しかいない。

人生のある時点までは、分け隔てなく誰とでも仲良くすることは重要だと思う。
というのも、学生時代という人間形成の段階で、心をオープンにしてさまざまな人と触れ合うことで、嫌な思いをしたりしながらも自分の性格や人間性について学ぶことができるからだ。

家族以外の人間との円滑な付き合い方についても学ぶことができる。

しかし、人生のある時点、具体的には就職等で自分の時間が限られるようになったら、関わる人を絞ってもいいと思う。

というのも、会っても消耗だけさせられる人や、ネガティブな気持ちにさせられる人、愚痴ばかりで楽しくない人などに割いている時間がもったいないからだ。

友達には、色んなタイプがある。
とにかく一緒にいて爆笑できる人、特定の趣味の話ができる人、相談ができる人、刺激を受ける人…
全て、大切な友達だ。

でも、休みは週に二日しかない中、全員と濃密な関係を築くだけの時間はない。

では、限られた時間の中で、どんな友人とずっと一緒にいるべきなのか?
忙しい時間を縫ってでも、関係を保つべき友人は誰なのか?

そんなふうに考えるになるきっかけになる出来事があった。

大学時代、親友だと思っている人がいた。
くだらないことを言い合って爆笑して、とても居心地が良くて、気が合った。
思ったジョークを口にしたら、そのまま伝わった。
旅行なんかも何度も一緒に行って、家族のように慣れた関係になった。

しかし、卒業して就職し、お互いのライフステージが進んで分かれていくにつれ、だんだんと違和感を感じるようになった。

彼女は、「そんなことも知らないの?」と私を下げるような発言をしたり、私の失敗談ばかりを共通の友人に話すようになったのだ。

2人きりでいるときには特に感じないけれど、数人でいるとなんとなく、私のことならいじっていい、というような彼女の空気感。

もちろん、その場の学生のノリであれば全く気にしないのだけれど、必要以上に繰り返されるツッコミという名の「いじり」「蔑み」の発言が気になり、モヤモヤするようになった。

さらに、私の身に起こった嬉しいこと(彼氏ができた、結婚した、就職した)に関しても、「へえーよかったね。私は昇進した」という感じの発言で、対抗心のようなものを感じるようになった。

ざらっとしたものを感じてから、私は彼女には嬉しいことを言ってはいけない、言いにくい、と感じるようになった。

そして、自分に自問自答してみた。
なぜ彼女といるとモヤモヤするのだろうか?
別に彼女に何か言われたところで、自分の価値は変わらないではないか?

考えた末にたどり着いたこのモヤモヤの正体は、
「彼女は私のことを実は大切に思っていない」
ということに、気がついてしまったからだった。

彼女にとって私は、彼女の自意識を満たす存在に過ぎなかったのだ。
私を下げることで、彼女は自分が優位に立つという満足感を得ていたのだと思う。
学生の時には横並びだったから気が付かなかったが、就職や結婚といったわかりやすい指標がある中で、彼女は私が彼女よりも幸せに「見える」ことが許せなかったのだと思う。
私が彼女よりも下か、横並びでいることでしか成立しない友情だったのだ。

本当にその人のことを大切に思っていたら、その人の幸せを願うはずである。
その人を尊重し、応援するはずである。
それなのに、私の尊厳を下げるような発言をしたり、私の嬉しいことを喜んでくれないということは、心の奥底では、本当に大切に思われていないということを悟ってしまったのだ。

それに気がついてから、会うたびにモヤモヤしていた彼女とは距離を置くようになった。

彼女とは、また人生のどこかでお互いに成長した姿で出会えたらいいと思う。
でも、今のところは、私は自分を大切に思ってくれる人を大切にしたい。

人生のライフステージが進むにつれて、友人の数は少なくて良くなる。
同僚やママ友といった、約束しなくても顔を合わせるので必然的に「今」を共有し、一緒に乗り越えていくテンポラリーな友人。あとは私をずっと前から知っている親友が数人いれば立派なものだ。

会う人が少なくなる中で、私が大切にしたいと思える貴重な友人、つまり「本当の友人」の条件が見えてきた。

それは、
「嬉しいことを一緒に喜んでくれる」
ということである。

悲しいことや愚痴を聞いて慰めてくれる友人は、割といる。
人は他人の不幸話やゴシップが、本質的に好きだからだ。

でも、嬉しいことを、屈託なく喜んでくれる友人は意外と少ない。
なんだかざらっとしたものを感じたり、妬まれたり、ギクシャクしたり、なんだか嬉しいことを言いづらい、と感じたり。

だから、嬉しいことを報告して、家族のように
「わあ、よかったねえ! 嬉しいよ!」
と喜んでくれる友人は、本当に貴重だ。

かくいう私も、友人の嬉しいことに対して、一点の妬みや嫉みなく「嬉しい!」と感じられる自信はあまりない。
特に、自分がこだわっていることや、自分が目指していた成功や良きことがあった場合にはなおさらだ。

でも、少なくとも、相手の喜びを萎ませることはするまいと思っている。
「よかったね!!」と、相手の喜びのお裾分けをもらう。
そして、「羨ましいな〜!いいな〜」と、本心をそのまま言う。

私の親友のすごいところは、私に起こった良いことを、本当に嬉しそうに聞いてくれるところだ。
「それでそれで?」とどんどん聞いてくれる。
もっと聞かせて、写真見せて、お裾分けして!と、無邪気に喜んでくれる。
私はそこまでの人間力はないので、毎度尊敬する。
心が美しい。

だからか、私と親友の間では、あまりネガティブな話にはならない。
こんなことがあった、こう考えたらいいよね、でも難しいな、じゃあこうしたら、とお互いになるべくいい方に発言する。

これは、相手のことを大切に思っているからに他ならない。

「嬉しいことを、一緒に喜んでくれる」

これ以外にも、きっと大切にしたい友達の定義は人の数だけあると思う。

私は、友達と一緒にいることで、パワーをもらったり、楽しい気持ちになったり、嬉しい気持ちになったりしたい。
ネガティブなことや実際的な問題は、夫や自分の中で解決するだけで十分だ。

幾つになっても何も考えずに嬉しいことを「聞いてー!」と報告し、嬉しさを何倍にもし合える関係の友人を大事にしたいし、自分も友人にとってそのような存在でありたい。


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