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穏やかな世界?

現実を忘れてしまうほど何かに没頭したり、何かに縋りながらではないと生きられない社会、あるいは世界は健全でしょうか?

たとえある種の苦しさや辛さが何かにはまるきっかけとなったと意識していなくても、無意識にそうなっていた可能性を完全に否定できるでしょうか?

私は何かにはまることを否定しているのではなく、何かにはまらなければ、仮にそれを失ってしまえば生きられないと思われてしまうような社会あるいは世界に疑問を感じているのです。

それは穏やかな世界と呼べるでしょうか?

本当に「それ」が好きではまっているのか、逃げ、あるいは癒しを求めてはまっているのか客観的に判断するのは簡単なことではありません。

しかし、もし自分がはまっていることになぜはまっているのか、理由がわからない場合は、1度立ち止まってなぜ今自分がこんな状態になっているのか考えて見るのも良いかもしれません。

きっかけはよくわからないけど、今は「それ」が非常に好き、四六時中それについて考えていたい、お金をかけるなら「それ」のために……

もし、自分がはまったきっかけが何か苦しいことであるならば、今まで避けるために「それ」を利用してきたならば、本当に辛いことだと思うけれど、その苦しいことに1度向き合ってみるのもアリかもしれません。

苦しいことに向き合って、先はどうなるかわかりません。

苦しいことが解消されるかもしれないし、どうにもならないかもしれません。

今まで気づかなかった、意図的に避けてきた苦しみが無くなったとき、もしかすると自分ははまっていた「それ」になんの魅力も感じなくなるかもしれません。

でもそれは悲しいことではないと思います。

きっと、そのときの自分の心の状態は今までと変わっていて、「それ」に対する感情も変わっているでしょう。

身近なことに落としこんだらなにを言いたいのかわからなくなってしまいましたが、私がここに書きたかったのはつまり、自分が何かに没頭しながら、縋りながらではなければ生きられないような状態にある時、自分をそのような状態に至らしめた社会や世界になにか問題があるのではないだろうか?ということです。

そして、その問題(自分にとっては身近な苦しみかもしれません)に向き合ってみることも必要なんじゃないかなということです。

近年日本ではオタク文化がより広く浸透し、ちまたでは「コスメオタク」や「ファッションオタク」なども現れ、いわゆる「ヲタク」だけのものではなくなりました。

誰もが何かに熱中し、没頭し、楽しみながら生活できるその事実は喜ばしいことかもしれませんが、私はその背景に隠れているかもしれない、暗いものを見過ごしてはならないと思ったのです。

もしかすると、人が何かにはまることに理由なんて、暗いものなんてないかもしれません。それならそれでよかったなと私は思います。

でももし、今まで気づかなかっただけ、避けてきただけではまっているものの後ろに暗いもの、苦しいものを抱えている人がいるとしたら、それは見過ごしてはならないと思うのです。

解決策はまだみつかっていないけれど、この問題提起がだれかが少し楽に、穏やかにすごせるきっかけになればと思います。

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