田舎はなぜ発展できないのか

 2023年10月10日から3日間、習近平国家主席が江西省を訪れた。詳しくは新華社の記事を全訳しているので、前回の記事を参照していただきたい。
 こういった最高指導者の訪問視察に対しては、美しいもの、よくできているもの、成果の出ているものを見せるだけなので、本当の問題点はなかなか明らかにならず、綱紀粛正以上の効果は薄い。指導者には、見せられた外面のいいものから、内面に隠された問題点を看破する洞察力が求められることになる。

 ところで、こうした記事を見て、既視感を感じられた読者も多いことだろう。
 そう、北朝鮮である。国家の最高指導者が地方政府やら観光地やら工場やらを訪れ、さも何か分かっているかのように指示を出すという図は、北朝鮮の日常として、日本でもよく報道されている。北朝鮮のこれは、完全に中国の真似である。北朝鮮というのは、誰がどう見てもまともな国家とは言えない。「それをお前が言う資格があるのか」という突っ込みはさておいて、アメリカの言葉を借りるならば、所謂「ならずもの国家」である。北朝鮮がこうしてミニ中国の姿をアピールすることは、明らかに中国のイメージダウンにつながっており、日本ではメディアの誘導もあって、中国を北朝鮮と同様の独裁専制主義国家の暗黒社会だと思っている人も少なくない。
 中国としては、北朝鮮のケツ持ちになることで様々な利用価値を考えているのであろうが、正直デメリットも多い。北朝鮮の飼い方は考えていくべきであろうと思う。

 さて、中国社会では現在、科学技術をめぐって表裏一体となる2つの大きな矛盾が発生している。中国はここ十数年で飛躍的に科学技術を発展させた。庶民の生活は便利になったはずだ。にもかかわらず、都会においては
(1)科学技術が発展し、社会が便利になったのに、生活は一向に楽にはならない
という矛盾がある。そして田舎においては、
(2)科学技術の発展は少なからず田舎にも浸透しているのに、田舎の社会は旧態依然として一向に発展しない
という矛盾が生まれている。
科学技術の発展は社会(経済)の発展にはつながらないのだろうか。

 (1)の問題点に対する解答は、よく指摘されている通り「過剰な競争が行われているから」である。人々は豊かさを求めるのではなく、人よりも豊かであることを求める。こうした相対的豊かさというものは、追究しだすときりがない。社会は一定のルールの下、自由な経済活動と競争を行えるようになっているが、ちょうどトーナメント競技のように、少数の勝者と圧倒的多数の敗者が生まれるように社会構造が出来上がっている。そして勝者となった者が自分たちの利益を守るために社会(経済)のルールを作り変えてしまうので、一度敗者となったが最後、どれだけイノベーションが進んでも、勝者となる者は変わらないというわけである。
 これは政治の世界でも言える。政権与党となったものが自分たちに有利になるように参政システムを作り変えてしまい、一向に政治改革と社会発展が進まないという状況である。優勝者が次の大会のルールを決めていい競技がどこにあるのか、という話なのだが、民主主義とはこういう社会なのだ。

 さて、これを踏まえて(2)の問題点を考えてみる。経済発展の恩恵を当然のように享受している都会的観点から見ると、田舎は経済社会の敗者・落伍者であるかのように見えるだろう。これは都会が経済社会の勝者で田舎が敗者という見方であり、田舎は敗者の集団であるという視点である。果たして本当にそうだろうか。

 例えばここに田舎町が一つあって、そこに朝食を提供する小さな食堂があるとしよう。同じ商圏には他に競合店はなく、この朝食店は街で唯一の食堂である。しかしこの店はとても古く、汚い。もう何十年ここで営業しているのか分からないが、経営者は家族で代を引き継いで続けている。こうした光景は田舎に非常にありがちなものであろう。
 では、ここで問題。「この食堂は勝者か敗者か」。
 もしあなたが都会の綺麗な飲食店を一つでも知っているのであれば、この小さな食堂が都会の綺麗な飲食店に勝てる点など一つもないことがはっきりわかるだろう。都会に住む市民や権力者、また田舎に住んでいながら都会の状況を知って憧れを抱いているような村民も、この小さな食堂は敗者であると考えるに違いない。そして勝者の立場から、この経済社会の落伍者に対して様々な改革を提案してみたくなるだろうが、おそらく一つも実現せず、この小さな食堂は何十年経っても、全く姿を変えずに営業を続けるだろう。まさにこれこそ、田舎が発展しないことを身を以て体現する、象徴的具体例である。

 しかし実は、この小さな食堂は敗者どころか、競争の頂点に立つ圧倒的勝者なのである。経済社会には必ず競争が存在する。都会には都会の、田舎には田舎の競争があったはずだ。そして、この小さな食堂はその競争を勝ち抜き、街で唯一の店舗となった優勝者なのである。都会的視点で見れば、田舎は競争すら行われていない立ち遅れた社会に見えるだろうが、その実そうではなく、既に激戦の競争が終わって久しい、古戦場なのだ。現在この田舎町に存在するすべての店舗は、その分野の大会で優勝した金メダリストたちであり、田舎町は実は敗者の集まりではなく、優勝者の集まりなのである。
 すでに優勝したのに、「もう一度最強決定戦をやろう」と提案されて、自身に勝ち目のない挑戦を受ける優勝者がいるだろうか。優勝者は挑戦者を拒みつづけ、いつまでも自分一人が優勝者であるようにするだろう。田舎は、そこに存在するすべての優勝者たちが、新たな挑戦者の来訪を拒み続けている。科学技術の発展の波が田舎に訪れても、優勝者たちはそれを自分たちがいつまでも有利になるようなシステムとして導入し、社会全体の仕組みを変えたりはしないだろう。自分たちが既得権益を失うようなシステムの導入を、誰が承知するだろうか。田舎はこれを町ぐるみで行っている。本来なら田舎の中で改革者・挑戦者となるはずの若者たちは、あるものは凝り固まった田舎に絶望して都会へと逃げ、またあるものは田舎の既得権益を受け継いでいく。こうして、田舎はいつまでも経済発展から取り残されたままになっていくのである。

 この田舎の根本的な社会構造を理解し、「田舎は落伍者の集まりである」という誤った認識を正さないと、地方経済に対して有効な施策を打ち出すことは決してできないだろう。既に競争に勝った者が既得権益を守ろうとして社会の革新を拒むという構図は、都会でも田舎でも同様に起こっていると言える。つまり前述の(1)と(2)の二つの矛盾は、場面を変えて発生している表裏一体の問題ととらえなければならない。
 現在の政府指導者にこの視点があるだろうか。自らが経済発展の勝者であり先導者であるという上から目線で、発展から立ち遅れた田舎を指導してやるという姿勢になってはいないだろうか。今回の習近平国家主席の江西訪問とその総括を読んでいて、田舎社会を理解し寄り添った政策が打ち出されるのかどうか、少し心配になってしまった。今後も注視していきたいと思う。

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