見出し画像

長編トラベルミステリー小説「夏の旅」17.旅立ち・真実の動機。

秋風爽やかな軽井沢。木々の木立が風に揺れ、秋の寂しい高原にススキの穂が揺れている。はるか浅間山がくっきりと見える。

新装なった長野新幹線、軽井沢駅のホームに、披露宴に集まった人々が、「あさま」で東京に行く弘樹と良子を見送りに集まった。弘樹と良子はふたつの大きなスーツケースを置いていた。これから成田空港に行き、ヨーロッパ二週間の新婚旅行に出発するのだ。
良子は磯田部長刑事、吉田警部補にお礼を申し述べた。
「ありがとうございます。おかげさまで無事結婚することができました。皆さんのお力がなかったら、こうはならなかったでしょう・・本当にありがとうございます・・」
磯田部長刑事と吉田警部補は笑みを浮かべてこれに答えた。
しばらくして、長野方面から新幹線「あさま」が軽井沢駅に入線してきた。二人は、停車した列車に乗り込んだ。列車は、大勢の人たちに見送られすぐに発車していった。弘樹と良子は見送りの人々に列車のデッキの窓越しに手を振った。列車は東京へと発車していった。

列車が行ってしまうと、磯田部長刑事、三井警部、吉田警部補の三人のところに弘樹の母親がやってきた。年老いた母親は、「本日は、お忙しい中ありがとうございます」と深々と頭を下げた。三人は「どういたしまして」と頭を下げ返した。
見送りの人々が、まだ暇があるから軽井沢駅前でもぶらつこうと、いなくなってしまったのを見計らって、吉田警部補は磯田部長刑事に声をかけた。
「磯田さん。ついに言わなかったね」
「あたり前だ。あんなことを、今日のような晴れがましい日に喋ってはいけないよ。こんなことは知らないほうが、あの二人のためだ・・」
「まあ、そうだな・・・」
「普段、仕事の時には骨の髄まで絞り上げるが、結婚式の日には思い切り褒めちぎり、乗せて新婚旅行に送り出す。いつも甘いと、優しくしても喜ばないが、普段厳しいとたまに優しくしてやれば喜ぶ。これが俺の仕事のやり方さ」
三井警部はこの一言を聞き、磯田部長刑事に声をかけた。
「なるほど、磯田さんらしい・・」
磯田部長刑事は心が痛んだ。
「あの宮崎治子というのも、気の毒なものだ・・」
吉田警部補は答えた。
「そうだな・・・」
磯田部長刑事は、鹿児島県警の取調室での宮崎治子の供述を思い出した。

六月十五日の晩、豪雨の降りしきる上野公園、不忍池近くの暗がりで、傘を手にした瀬田勝邦と宮崎治子が向き合って立っていた。時折、凄まじい雷鳴が轟いて、二人の傘の上にバタバタと大粒の雨が落ちている。
宮崎治子は瀬田勝邦に詰め寄った。
「お願い!あなたの奥さんとは別れて!」
勝邦は、この宮崎治子の願いをきっぱりと拒絶した。
「それは、できない・・」
「どうして!?あなたはあんなに妻の良子とは別れたい。そう言ってたじゃない。三月に良子の浮気の尻尾をつかんだ。だからこれをネタに、七月には良子に離婚を申し入れる。そう、とても喜んでいたじゃない。それなのに、今になって突然別れたくないだなんて、そんな馬鹿な話ってある!?」
「ある・・」
その、勝邦の一言に、治子は意外な確信があることに気づいた。その返事は、今までの勝邦の態度からは感じたことがないほど決然としていた。勝邦は続ける。
「俺は、馬鹿だった」
「えっ?」
「俺は本当は良子を愛していたんだ。だから別れてくれ」
その、重苦しい口調に、治子は驚いた。二世のボンボンで、いつも冗談めいた話しかしない男がこんなに深刻な口調で話すのを見たことがなかったからだ。治子はこれに半ば怒りながら反論した。
「そう、わかった・・今まで私を騙してきたのね。結婚を餌に私をモノにして、頃合いを見て捨てようというのね!本当は、良子さんが大切で、私はおもちゃにすぎなかったのね!」
「いや待ってくれ。俺は本当にわかったんだ」
「わかった?・・何がわかったのよ?」
勝邦の口調は明るく確信に満ちたものに変わっていった。
「今年の四月。谷川探偵の調査で良子の浮気の事実を明確に摑んだ。俺はとても嬉しかった。これで良子と別れる立派な口実ができた。お前と一緒になれる。俺はとても喜んだ。ところが、その調査の資料としてあった、良子が水戸の偕楽園で石山弘樹というあの憎くたらしい悪魔のような男と親密そうに抱き合っている写真を見て、非常な怒りを感じた。だが・・この怒りは・・一体何だろう。・・あの不思議な気持ちは何だろう?そして、夜寝ている良子の顔を見つめているうちに、ハッと気づいた。俺は本当は良子を深く愛していたんだ。自分の心は良子のもとにある。俺にとってなくてはならない人だったんだ。かけがえのない人だったんだ・・・と・・。不思議だ・・・結婚して六年。親の決めた結婚で、愛情すらも感じていなかった。政略結婚で、冷たい、形式だけの夫婦だと割り切っていた。こんなことを考えたのは初めてだ」
その勝邦の一言一言に、治子は勝邦に対する許し難い憎しみの念がめらめらと燃え上がった。そんな子供だましの手で自分との関係を清算しようなんて虫の良い悪どい捨て方は許せない!治子は傘を肩に載せると、手にしたバッグの中を探りトカレフをバッグから取り出した。
「何を言うの、そんな嘘で私を騙そうとしても駄目よ!」
治子はトカレフの銃口を勝邦に向けた。治子は怒りに震えて叫んだ。
「もう、許せない!あなたを殺してやるわ!そんな心にもない嘘を言って!」
「心にもない、だって・・・?」
「そうよ!」
「いや・・本当なんだ」
その、静かな勝邦の口調、そして穏やかな目に、治子は女の勘で勝邦が本当のことを言っているということを直感した。勝邦は続ける。
「そして、思ったんだ。俺は今まで何て罪深いことをやってきたんだろう。あんな素敵な人が自分の妻だったなんて・・あんな愛くるしい人が自分の妻だったなんて・・・だからこそ、あの石山弘樹という男は絶対に許せない。必ずぶち殺してやる!」
その勝邦の怒り狂った様子に、勝邦の心がもう自分から離れてしまったことを治子は確信し、気が動転して目の前が真っ暗になった。治子は最後の苦し紛れに、トカレフの銃口を自分の喉に押し当てて叫んだ。
「お願い!良子さんのことは忘れて!そうしないと私死んでしまうから!」
その時、雷鳴が轟くと雨が一段と激しく叩きつけた。勝邦はこの治子の願いをきっぱりの拒絶した。
「いや!絶対に諦めない!あの石山弘樹という男から必ず良子の心を取り戻して、良子を奪い返してやる。必ずだ!そのために、あの石山弘樹という男を徹底的に叩くんだ!必ず!あらゆる手段を使って叩き潰してやる!必ずだ!もう、あのお前との連絡に使った携帯電話は持ち歩いていない。今の俺の頭の中は、あの石山弘樹というガキをいかに叩き潰すか。どうやって良子の心を取り戻すか・・・そのことで頭がいっぱいなんだ。もう、お前のことなんか全然、これっぽっちも考えていない。良子の心をどうやって俺の元に呼び戻すか?考えているのはただそれだけだ。良子は一体何をすれば、俺に関心を示すかな・・大きな豪邸か?贅沢なコートや着物か?高価なダイヤの指輪?それとも成功者の妻という威信か?とにかくどんなことをしても良子の心を取り戻してやる。だからお前とは別れる。金か?金だったらいくらでも払う。五百万か、それとも一千万円か?いくらでもいい、言ってくれ!いくらでも好きなだけ手切れ金として払ってやるぞ!ここで言ってくれ!良子と一緒になるためだったら安いものだ!」
この一言に治子の憎悪の念は頂点に達した。自分は金で体を売る娼婦ではない!これは金で解決のつく問題じゃない。治子は怒りに震える手でトカレフの銃口を勝邦に向けると、半ば衝動的に引き金を引いた。「ズドン!」という大きな音で弾が発射されると勝邦はその場に倒れた。倒れた勝邦めがけて治子は夢中になって引き金を引いて勝邦を撃ち殺した。ふと、我に帰ると、勝邦は無残な死体となっていた。治子は泣きながら上野駅公園口に向かって走っていった。

鹿児島県警の取調室で磯田部長刑事を前にした宮崎治子は、瀬田勝邦の殺害の動機を語り終えると、こう供述した。
「私、良子さんがとても憎くかった。石山さんの心を捕らえたのはいいけど、どうして勝邦さんの心まで持っていってしまうの!そんなの不公平だわ!だから、あの週刊クイーンの記事が出た時、私、良子さんに復讐してやろうと思ったの。それで桜島、湯ノ平展望所近くに埋めておいたトカレフを掘り出して、石山という人の家の近くに置いたの。でも何日かして、良子さんが鹿児島に来た時、私、あの人がまるで自分の妹のように思えたの。だから鹿児島市内を一緒に回ってとても楽しかったわ。あの人には、私が殺してしまった勝邦さんの面影がある。また会いたい・・でも、そんなの駄目よね・・」

そう言い終えると、磯田部長刑事の前で治子は泣き崩れた。

軽井沢駅の新幹線ホームで、吉田警部補は磯田部長刑事に話かけた。
「このことは、あの二人にはわからないかな?」
「わからないさ。新聞だって『別れ話のもつれが殺害の動機だ』としか書いてないからな。もう、終わったことだ。昔々こんなことがあった・・でも、今となっては考えても仕方のないことさ。あの二人には未来のことを考えてもらえればそれで良いんだ・・・」
三井警部が、この磯田部長刑事の話に頷くと、三人は別の話に興じた。

プラットホームに一羽の茶色の鳥が舞い降りた。その鳥は軽井沢駅ホーム中ほどのベンチに腰掛けている老夫婦の足元に寄っていくと、チッ、チッと鳴き、尾を振り、羽をパタパタさせて餌をねだるしぐさをした。夫が老妻に尋ねた。
「この鳥、なんて鳥だ?」
「さあ?知らないね・・何か薄汚れた茶色の鳥ね・・・餌をやるよ・・ほら」
老妻は軽井沢駅前で買ったポテトチップスの袋を開け、ポテトチップスをその鳥の前に放り投げた。その鳥はめちゃくちゃ腹が減ってたのか、必死になってポテトチップスのかけらを食べた。

浅間山麓の秋。林間の木々の葉は赤や黄色に色づき、風にさわさわと揺れた。静かな秋の軽井沢駅ホームであった。

軽井沢駅を発車した「あさま」は一路高崎へと向かった。弘樹はグリーン車の指定席券を見ながら「えーっと・・6Aと6Bはここだな・・」と自分たちの座る座席を見つけて呟いた。弘樹は良子に問いかけた。
「6Aが窓側か・・良子さんどっちがいい?」
「通路側でいいわ・・」
「そう・・」
二人は、グリーン車の座席に腰を埋めた。
すぐに車掌がやってきて、二人の乗車券を改めた。弘樹は切符を取り出して車掌に渡した。
「成田空港までですね・・」
「そうです・・」
「東京駅で、総武線地下ホームにお越しください」
「ありがとうございます」
車掌が検札し、弘樹に切符を返して行ってしまうと、良子が弘樹に話しかけた。
「やっと終わったわね」
「ああ、疲れた。いくらジミ婚とはいえ、結婚がこんなに大変だとは思わなかったよ」
「今日、出席してくれた人たちへのお返しは?」
「ヨーロッパ旅行の旅先でゆっくり考えようよ」
「そうね・・・」
ふっと良子は寂しそうな表情をした。
「でも・・あの宮崎治子という人、かわいそう・・」
「そうだな・・でも僕たちをはめようとして、僕の家の前にトカレフを置いて、そのために自ら滅んだんだ・・もう、忘れることだよ・・」
「そうね・・」
弘樹は自分の将来について良子に話しかけた。
「僕は、あと二、三年したら今の仕事にケリをつけて、仲間のやっている投資顧問会社に行くつもりだ」
「そう・・」
「そうさ。あんな八重洲銀行のような巨大組織ではこれから大変だ。組織内部も官僚的で面白くないね。あの、警察の取り調べを受けてから銀行に帰り、いじめられて思い知ったよ。僕のような人間の生きていく場所じゃない」
「そう・・」
「僕が警察に捕まっていた時の八重洲銀行の仲間や上司のやり口を見て失望したよ・・晴れて無罪が証明され銀行に帰っても、仲間はみんな冷たかった。支店長は毎日嫌がらせのイヤミしか言わないし・・こんな連中と仕事をしていくのはまっぴらごめんと思ったね。所詮、そつのない、大きな失敗をしない奴だけが出世する、そういうつまらない世界さ。でも、もうそんな時代は終るだろう。アメリカではインターネット回線を利用した小規模銀行というのがどんどん成功している。八重洲銀行のような巨大組織はこれからの時代にそぐわないのかもしれない」
良子はこの弘樹の言葉に黙って頷いた。
弘樹は、胸のポケットから一枚のカードを取り出し、万年筆と一緒に良子に渡した。良子は弘樹に問いかけた。
「何?これ・・・」
「そこに、いろいろ書いて欲しいんだ。君の欲しいものをね・・・たとえば家が欲しい。車が欲しい。あんなものが欲しいなんてね・・僕は必死になって君の欲しいものを実現するために、死ぬ気で頑張るよ」
「そう・・・」
良子はこの一言に嬉しそうに頷いた。
列車の案内放送が流れた。

「まもなく高崎に到着いたします・・・」

二人の旅は、これから始まる。

(この小説はフィクションです。小説に出てくる人物、団体、事件等は架空のもので、実在しません)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?