見出し画像

原作者に対する”暴力”をどう回避するか?~原作付き映像化作品のクリエイティブ・コントロールの構造的問題について

 とても悲しい事件が起こってしまいました。
 関係者は自分の仕事の仕方を見直しているとは思うのですが、”ちゃんとしよう”だけでは解決できない構造的問題があるように思います。きわめて図式的ですが、整理してみます。

 小説・マンガ等を原作にして映像作品を制作する場合、原作者側には大きく二つの対応方法があります。
① 原作使用料をもらって監修権を設定する
② 諦めがつくくらい高額の原作使用料をもらって監修権を設定せず、著作者人格権の不行使に合意する

 日本の映像作品制作では①のケースが多いと思われますが、このやり方は原作者側からすると構造的な問題を内包しています。監修権の行使=監修作業 の費用を映像作品製作者が一切負担しないケースがほとんどという問題です。つまり映像製作者側にモラルハザードが起こります。

 結果、映像作品のプロデューサーがゲーム理論的な殺伐とした仕事の仕方をする人だった場合(あるいは経験がなさ過ぎて子供の使いレベルだった場合)、原作者側のストレスは大変大きいものになります。

 映像作品製作者の目線で考えます。
 仮にテレビドラマであれば、映像化にあたり高視聴率実現【だけ】を想定した脚本を完成させようとします。仮に原作者側が脚本の内容について明確な指針を持っていた場合には、指針を守ること自体がまずは脚本開発上の作業の追加=コストになります。内容によっては高視聴率実現想定にとっては好ましくないことも当然あります。ドラマの製作本数は増えているので、単に原作者から与えられた指針を盛り込んで面白い脚本を書くのに向かない脚本家が、スケジュールなどの都合で担当せざるを得なくなることもあります。

 このような状況下で製作者にとって最も合理的な方法は原作者の指針を無視することです。
 仕事の目標を、
「原作者の先生の意向・アイディアも尊重しつつ面白い脚本を仕上げること」
ではなく、
「原作者との契約を守らなかったわけではない、と主張可能な状況をつくること」
に変更する訳です。ゴールポストを動かすともいえます。

具体的にはどうするか?
高視聴率実現想定の脚本を原作者からの事前の意向を全部無視して制作し、原作者側に修正を丸投げするのです。なぜそんな

暴力


が想像以上に頻繁に発生するかというと、契約や信義ではなくゲーム理論的にふるまう人が一定数いるからです。

「お互いに取引の回数が1回のみだとわかっている取引は成立しない。なぜならばどちらの側も相手を騙す方が得だから」というのがあります。
脚本家の立場からすれば、次の取引が発生する可能性がずっと高いのは原作者側でなく製作者です。製作者の立場からしても、原作出版社への一定の配慮はあるものの、個々の原作者に関しては【次の取引】を想定しえないという判断は頻繁に起こりえます。特に、原作の使い捨てが常習化している製作者、原作連載が終わっていないなど何らかの理由でセカンドシーズンの製作が想定しづらい場合など、1回のみの取引として仕事する人=(裁判にならない範囲で)約束を守らない人 がでてきます。

  1.  そしてもう一つの問題。日本でよくある原作使用許諾の条件では、原作者側がどんなに時間を使っても監修作業自体は無料です。つまり、映像制作者側にとっては、知恵を絞り時間をつかって提示された原作者の条件を脚本に反映すること自体が時間の無駄。脚本家が好き放題に書いた脚本を原作者側に監修に出しさえすれば仕事は終わりです。

それから何が起きるかというと、
A. 大修正が発生する場合でも原作者側コスト負担100%
  かつその結果視聴率が不調だったり視聴者に不評だった場合は原作者を戦犯にすることが出来る。
B. 原作者側を根負けさせて妥協を強いるか、時間切れを理由に原作者の意向を無視する。要は監修を受けたという形式のみ整える。

どちらかの成果が得られます。
 製作者側は勝手にゴールポストを動かすのに、契約や約束は守ってもらえるものであるという常識をベースに仕事している原作者側が一方的に修正の時間的(=費用的)負担や視聴率不調の場合の責任を押し付けられることになります。

 もう削除されてしまいましたが、故芦原妃名子先生が公開された『セクシー田中さん』の脚本制作過程の顛末には、映像製作者側がゴールポストを動かしたスタイルで仕事を進めた結果、責任感の強い先生の作業負担がどんどん増えて、ストレスを溜めて行った過程が痛々しく綴られていました。もし、このストレスさえなかったなら…と正直思ってしまいます。
 そして、映像製作者側が原作者をクリエイティブな責任のゴミ箱のように扱い続けた結果、原作者の先生は疲れ果て、最後の2話分の脚本については自分で執筆することになりました。無料で対応し続けた監修意見を無視され、挙句に責任のゴミ箱にされるくらいなら、自分で100%責任をとるという方針転換だったのでしょう。
 その結果、原作者の先生は脚本家を敵に回してしまいました。ドラマ2話分の脚本料を脚本家から取り上げてしまったのですから、具体的な損害を与えてしまったと考えられます。また、思い通りに仕事できなかった=脚本家の責任ではないのにドラマに厳しい評価をする人も出てくる…という状況になります。そう考えると、そりゃ原作者に対してあんな風に攻撃的になっても仕方ないと理解できます。結果として事件の端緒になったのは、脚本家のインスタで原作者が戦犯として指摘されたことでした。
 
 ではどうしたらよかったのか?
 人生、だいたいのことはお金で解決できます。ですから上記の②諦めがつくぐらい高額の原作使用料… はひとつの解決策です。ハリウッドなら多くの場合こちら。

 一方、①の場合はコストと条件を増やす方向の方法しか思いつきません。
 監修作業が無料であることがモラルハザードが起こった原因ですから、ぱっと思いつくのは工数的な発想を導入して監修作業の実費を算出した上で製作者に請求するような契約。かつ原作者が事前にリクエストした指針あったとして、それが反映されなければ監修コストを映像製作者が追加で支払う仕組みにする…くらいです。あとはせめて、原作者監修用の脚本初稿は撮影前の充分な期間をとって提出し、かつ撮影前に決定稿について原作者の承認を得なければならない…とするとかでしょう。

 今回の事件は映像製作者が原作者を責任のゴミ箱扱いしたから発生したという解釈が可能です。「どうか、今後同じことが繰り返されませんように。」というのは皮肉なことに脚本家の方のインスタでのコメントでしたが、本当に、こんなことを二度と起こさないようにするためには、構造的な問題が存在することを認める必要があるとおもいます。