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歌舞伎の未来に感動するのに伝統歌舞伎の知識は必要ない説~『新作歌舞伎ファイナルファンタジーⅩ』

(ネタばれ全開です)
 『スーパー歌舞伎Ⅱワンピース』(2015)を嚆矢として、ポップカルチャー原作の歌舞伎が次々と上演されてきました。その中でも尾上菊之助は、彼が過去に手掛けたインド神話やシェークスピアの歌舞伎化の発展形で新作歌舞伎『風の谷のナウシカ』(2019)を成功させました。そして『ナウシカ 上の巻 ―白き魔女の戦記―』としてコロナ明けの2022年にも再演し、今後古典演目として定着していくことが期待されます。

何故ファイナルファンタジーⅩを選んだのか

 その菊之助の新たな挑戦が『新作歌舞伎ファイナルファンタジーⅩ(以下FFX歌舞伎)』です。まず、なぜ他のどれでもないこのゲームを歌舞伎化したのか考えます。
 ビデオゲームは何に翻案するにも結構難易度が高くて、ハリウッドで映画化したものですら、実写映画『スーパーマリオブラザーズ』(1993)を皮切りに失敗作が死屍累々。本家スクエア(当時)がCGで製作した映画『ファイナルファンタジー』(2001)ですら端的に色々微妙でした。 
 ゲームは没入度が高いエンタテインメントで、ゲーマーはゲームをクリアするだけで数十時間プレイします。ほんの数時間のうちにリニアにストーリーを語るだけの映画などのメディアで、熱心なファンを満足させかつ一般の観客が感動するようなものを制作する方法はなかなか確立されませんでした。(ハリウッドでは最近ゲーム原作映画の成功例がいくつも出ていますが、それはまた別の話)
 おそらく小説化のみ、キャラクターの心理描写に厚みを出すことができるので例外だったと思われます。

 …というところまでは知識としてもっていたものの、正直私自身ゲームは、ねこあつめとポケモンGOくらいしかやってないので観劇前にまとめ動画でストーリー予習しました。便利だ。

 FFXのストーリーは複雑なのでここでは動画を貼るのみで文章化は省略しますが、私が学習した範囲で解釈した結論としては以下のようになります。 
 お話が二階層になっていて、下位の階層は普通のゲーム、上位の階層はビデオゲームの制作者たちとプレイヤーのアナロジーになっている。この構造でFFⅩはビデオゲームへの愛情をビデオゲームで表現したのでしょう。
 ナウシカ歌舞伎の成功で、歌舞伎でスケールの大きな世界を描くことが可能であることは証明できたものの、リニアにストーリーを語るだけというのは歌舞伎も一緒。そこで、単に世界やストーリーを脚色するだけでなく、ビデオゲームへそのものへの愛がテーマのひとつになっているFFⅩを選んだんだと思います。

・ファイナルファンタジーⅩのストーリーの二階層
□ 祈り子が犠牲になって異世界スピラへの召喚獣になるが、それが命を削ってゲームをつくるゲーム制作者の姿との相似形になっている。
□ 祈り子(=ゲーム制作者)の夢として存在するザナルカンドは、彼らが考えるゲームプレイヤーの人々とファンのコミュニティ。これが上位の階層です。
□ そのザナルカンドから、ティーダはスピラに吸い込まれていく。ティーダはビデオゲームプレイヤーの相似形で、スピラを舞台に召喚士ユウナを主人公とする冒険=ゲームが展開され、ゲーマーはゲームをプレイしている最中スピラの住人になります。スピラが下位の階層。

□ そしてティーダ=プレイヤーは、主人公ユウナ≒そのゲームと恋に落ちる。

□ ところが、祈り子たちの願いをかなえてティーダが冒険を終わらせると彼自身祈り子の夢なので、スピラからは消え去ってしまう。つまり、ゲーマーがゲーム制作者の想いに応えてゲームをクリアしてゲームを終えると、ゲームの世界には戻ってこない…という構造。
□ 異世界スピラは救われ、ユウナが戦った人たちのことを「時々は…思い出してください」というメッセージを伝えて終わりです。ゲームが終わっても、ゲームを楽しんだ経験は時々思い出してね、…ということなんでしょう。

 要は、ビデオゲームに対するプレイヤーと制作者のそれぞれの愛がFFⅩで語られているのだと思います。このように解釈すると、何故菊之助が他のどのゲームでもなく、FFⅩを選んで歌舞伎化したのか納得できます。コロナ禍で歌舞伎の興行がストップしたときに、ユウナのメッセージを愚直に実行し、菊之助はこのゲームを思い出した。そしてこのプロジェクトを開発した。それほどまでにゲームが好きすぎて、ビデオゲーム愛が込められたこのゲームを全力で歌舞伎にしました!ということなのでしょう。その心意気と実行力だけでも十分感動的です。

何故FFX歌舞伎は成功したのか


 とはいえ、これしかない、というゲームを原作にしたとしても、それは成功の一要素でしかありません。その原作を多くのゲームファンが満足するような舞台として成立させることができた要素がいくつもありました。
 FFXにはブリッツボールを含めアクションシーンが多数あります。通常の2.5次元なら殺陣を工夫するとかなのですが、歌舞伎の場合見得がある。アクションの迫力だけをシンボリックな静止ポーズでみせるわけですが、見得は贅沢な瞬間の切り取り方でむしろ印象深い表現手法です。
 同時に、プロジェクション・マッピング手法の成熟があります。スーパー歌舞伎Ⅱワンピース以降のポップカルチャー原作の歌舞伎で、従来の歌舞伎になかったような広大な景色や、ファンタジックな異世界を美しく表現することが可能になりました。FFX歌舞伎ではIHIステージアラウンドシアターの幕がすべて移動式スクリーンになっていて、より大きなスケール感を出していました。場面によっては心象風景のようなパターンを映すのみで演出の邪魔にならないようにするなど、きめの細かい使い方で効果的でした。
 またゲームの場合主要キャラクターそれぞれと過ごす時間が長いので、プレイヤーが抱くそれぞれのキャラクターへの思い入れが高く、かつキャラクター間の関係性への理解も深い。従って、主役わき役関係なくまんべんなく演技力の高い演者を配して、心理描写に厚みを持たせる必要があります。その点、歌舞伎役者は訓練の年月が違うし、同じ演目のなかで別のキャラクターを演じる機会も多く、キャラクター間の関係性の理解が深い。中村歌六(シド)・中村錦之助(ブラスカ)/坂東彌十郎(ジェクト)などのベテラン、尾上松也(シーモア)・中村獅童(アーロン)などの人気役者、中村橋之助(ワッカ)・中村梅枝(ルールー)・中村萬太郎(23代目オオアカ屋/ルッツ)・上村吉太朗(リュック)の若手そして尾上丑之助(祈り子)…というキャストで、観客のプレイヤー層がもつ高い期待値を菊之助の息子丑之助の子役を含め本当の意味での演技のプロフェッショナル達は裏切らない、という新鮮な体験を提供することを実現しました。

・そして中村芝のぶと中村米吉
 そして成功の核となったのが女形の二人、ユウナレスカ/ティーダの母二役の中村芝のぶとユウナ役中村米吉です。
 芝のぶは、国立劇場養成所の研修生から昇進してきた実力派。ずいぶん以前の話ですが、歌舞伎評論の大家渡辺保は芝のぶを”女優めいている”的な言い方で、批判したことすらありました。要は女形らしさをだすべき、という歌舞伎ならではの叱られ方。また、ナウシカ歌舞伎では庭の人とナウシカ母という、その役が破綻すると演目が破綻するような重要な役を複数担当。芝のぶに対する菊之助の信頼の厚さがわかります。
 そして米吉は『風の谷のナウシカ』再演時のナウシカ役。女性的な美しさだけを抽出したような米吉ならではの存在感を活かして、今年1月には『オンディーヌ』の主役水の精オンディーヌを勤めています。 
 初日前に公開されたユウナの異界送りの動画では日舞で鍛えた米吉の優美かつ安定した動きをみせて宣伝の核となり、女形への興味を盛り上げ、公演でも米吉は期待に応えました。
 また、通常の歌舞伎であれば地声のみの演技となりますが、今回のIHIステージアラウンドシアターではマイク+PAを使っての公演。奥の席まで台詞が届くようにする必要がない分、女形はより繊細な演技が可能になったようです。芝のぶも米吉も女性声優が吹き替えてるんじゃないかと疑うくらいの完成度で、FFX歌舞伎ならではの体験でした。

・普遍的なテーマ
 古典的な歌舞伎のお話は大体、心中・切腹・神頼み(祟り)で終わりますが、要は封建社会で個人を解放する方法がそれしかなかったから。”封建社会のなかで個人の解放はどのようにして可能か?”というテーマが普遍性をもっているので、21世紀だろうが令和だろうが海外だろうが観客は感動する。  
 FFX歌舞伎に限らず、菊之助が手掛ける新作歌舞伎には普遍的な物語ばかりです。テーマのバリエーションが増えるだけ。ナウシカは文明と自然の関係や戦争で痛めつけられる普通の人たちの悲劇を描く物語。FFXはスピラの階層ではさまざまな部族間の対立や宗教がもたらす不寛容さによる葛藤や、複数の部族間婚のハーフが差別される生きづらさが描かれます。そしてサマルカンドの階層では、人生にとって思い出とは何か?ビデオゲームへの愛がテーマ。
 
…というようなさまざまな足し算がきちんと成立して、歌舞伎に一切興味を持ったことのない多くのゲームファンを含めて、新鮮かつ感動的な経験を提供できたということだと思います。歌舞伎とはどんなものなのか、何を楽しめばいいかわからない、とおっかなびっくりご覧になった方も多かったと思いますが、FFX歌舞伎を体験した後は、凄かった!という想いだけが残った方が多いようです。
 菊之助のFFX歌舞伎という歌舞伎の未来を体験し感動するのに、伝統歌舞伎の知識など必要なかったのです。