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共感を「シンパシー」と「エンパシー」にわけて整理したら、いろんなことが腑に落ちた話

保育園のお迎えに行くと、円形のプラスチックを組み合わせて作った制作物を持って帰りたいと娘が言ってきた。

保育園のものは僕のものではないので、「お父さんじゃなくて、先生に聞いてごらん」と伝えてみる。

ちょっと下を向いてはにかみつつ、先生を探してとことこ歩いていく娘。タイミングわるく、そこには娘が普段あまり触れあっていない先生しかいなかった。

「これ、おうちにもって……」あたりまでなんとか聞こえたが、その先はほぼ聞き取れないゴニョゴニョ声に。先生が「なぁに?」と聞きかえすも、その返答はまたゴニョゴニョ…。これじゃあ伝わらない。

どうかなぁ、がんばれるかなぁと思いながら、「もう一回だけ聞いてごらん」と、うしろから励ます。すると、今度は「これおうちに持っていきたい…」と、消え入りそうな声でなんとか最後まで言うことができた。

おっ、自分で言えたじゃん。と、ほっとしたのもつかの間。娘の様子がおかしい。目のあたりを腕で何度もゴシゴシこすっている。そして、ずずずっと鼻をすする音が聞こえてきた。

あっ、泣いてるわ。と気付き、「ねぇねぇ、こっちおいで」と声をかける。すると娘はぱっと振り向き、僕の方へ飛びついてきた。

そうだよねぇ、心細かったよねぇ。と思いながら娘を抱くと、なぜだか僕も急に寂しい気持ちになってきて、あぁ、知ってる知ってる。その気持ち、お父さんも知ってるよ。と何度も娘に伝えた。

*****

白状すると、僕はこれまで娘がいくら泣こうとも、その感情に自分の心が揺れることは無かった。もちろん、なんで泣いてるのだろうと思案は巡らすし、その泣き声の意味を理解しようと努めてきたつもりではある。でも、それは娘への感情移入の結果の行動ではなく、親としてすべきことを頭で考えた結果の行動だ。

この点、娘の泣き声に対する反応は僕とパートナーでは大きくちがう(と、僕は感じている)。いまでもよく覚えているが、娘が生まれたばかりのとき、パートナーは「娘が泣いていると、私はいてもたってもいられなくなる」と言ったのだ。その感覚を僕が感じることはいままでに一度も無かった。

わざわざ「白状すると」と前置きした通り、じつはこのことを僕はずっと恥じていた。親であれば、パートナーのように娘の感情と自分の感情が呼応することは当たり前のことではないのだろうか。自分にそれが無いということは、自身の感情の冷たさを表してはいないだろうか…。

でも、感じないものはどうしたって感じない。努力してなんとかなるものでもないので、なんだかなぁと思いながら、ここまで過ごしてきた。なので、今回、保育園で起きた出来事に僕はすごく驚いてしまった。

僕は今日、はじめて娘の気持ちに共感したのだ。

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これまでの娘の泣き方は、つねに「わーん!」と大きな声を伴うものだった。そしてそれは、必ず誰かへのメッセージだった。だれか助けて!気付いて!わーん!

思うにこれは、他者と自分が分離していない時の泣き方なのではないだろうか。生まれたての人間はひとりで何かを成すことができないので、他者に助けられて生きることが前提になっている。そして、たぶん赤子には、自分が誰かに助けられているという感覚は無い。むしろ、他者の行為も自分の行為として認識している可能性がある。

わーん!と泣いて授乳をせがむとき、娘は「お母さんお願いします」と言ってるのではなく、まるで脳から出された指令で自分の身体が動くように、自分の泣き声によって、お母さんを動かしていると認知しているのではないか、というのが僕の想像だ。

そうであれば、パートナーが生まれたての娘の泣き声にいてもたってもいられなくなった気持ちも分かるような気がする。娘が胎内にいた時も、生まれたばかりの娘に授乳を施す時も、母と子は一体なのだから。

今回の娘の泣き方は、誰かに助けを求めるものではなく、自分の内に向かった泣き方だった。僕は、この泣き方を「あぁ、知ってる」と思ったのだ。

知ってるよ、その涙。はじめて友達に自分から話しかけてみた時や、勇気を出して自分の気持ちを人に伝えてみた時、なぜか分からないけど、僕もよくすすり泣いたもの。

誰かに解決してほしいんじゃない。思い切って振り絞った勇気や、その心細さが、自分のなかから涙を引き出したんだ。

今日、娘は他者に向けた涙ではなく、自分に向けた涙を流した。ここに僕は、他者との分離を見た。2歳9か月。ちいさいなりに娘はひとり立ちしようとしている。

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人は大きくなると、他者に向けた泣き方をしなくなる。泣いてもだれも助けてくれなくなるからだ。(その代わりに、助けてほしい時にはそれを言葉で伝えたり、態度で婉曲に伝えることができるようになる。)

でも、今日娘が見せたような自分に向かった涙なら、大人になってからも流すことがある。悲しかったり悔しかったりする時だ。これは、泣いて誰かに解決してもらうためのものではなく、自分で自分を癒す行為としての涙だと思う。

僕はもう自分が幼児の時のことを覚えていないので、他者を求める泣き方というのに共感することができない。でも、自分に向かう泣き方は恥ずかしながらいまでもすることがあるので、これには共感できる。

僕が娘に共感したのは、僕と娘が同じステージに立ちつつあることを表しているのかもしれない。

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さて、ここまで「共感」という単語を使ってきたが、『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』を読んで、共感には「シンパシー」と「エンパシー」があることを知った。

シンパシーをオクスフォード英英辞典でひくと

1.誰かをかわいそうだと思う感情。誰かの問題を理解して気にかけていることを示すこと
2.ある考え、理念、組織などへの支持や同意を示す行為
3.同じような意見や関心を持っている人々の間の友情や理解

と出てくるそうだ。

一方のエンパシーは「他人の感情や経験などを理解する能力」とだけ書かれているらしい。

これをもって、ブレイディみかこさんは下記のように説明する。

つまり、シンパシーのほうは「感情や行為や理解」なのだが、エンパシーのほうは「能力」なのである。

ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー(ブレイディみかこ)P.94-95/新潮文庫

これだけだとまだピンとこないかもしれないので、もう少しだけ引用する。

シンパシーのほうはかわいそうな立場の人や問題を抱えた人、自分と似たような意見を持っている人々に対して人間が抱く感情のことだから、自分で努力をしなくとも自然に出来る。だが、エンパシーは違う。自分と違う理念や信念を持つ人や、別にかわいそうだとは思えない立場の人々が何を考えているのだろうと想像する力のことだ。シンパシーは感情的状態、エンパシーは知的作業とも言えるのかもしれない。

ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー(ブレイディみかこ)P.95/新潮文庫

調べてみると、どうもエンパシーにも様々な定義があるようなのだが、この本では「異なる他者の立場を理解する能力」としてエンパシーが使われているので、僕もその理解で読み進めた。

このシンパシーとエンパシーのちがいは、僕がこれまで抱えていた謎をいくつも解決してくれたので、書き留めておきたいと思った。

*****

たとえば、冒頭に書いた娘の涙への共感について。

これまでの僕は、感情として娘の気持ちを理解することが出来なかったので、その感情を推測する能力としての「エンパシー」を使って娘とコミュニケーションを取っていた。

でも、今日のぼくは、娘の気持ちを自分の気持ちと重ね合わせて感じていたので、これは「シンパシー」を感じたのだと理解できる。

シンパシーもエンパシーも、日本語だと「共感」になってしまうので、これまでの僕も、今日の僕も、いちおう「共感」していると表現できなくはないのだが、その共感は全く異なるものだったのだ。

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そう思ったらふと、自分が大学生の時のことを思い出していた。
僕は大学生になってから急にコミュニケーション能力が向上して、年齢や性別、立場に関わらず多くの人と交流できるようになった。

高校生の頃までは、自分が理解できる人のことしか好きになれなかったので、高校の僕と大学以降の僕は、まったくの別人であると自分では思っている。

この変化を自分でも説明できずにいたのだが、シンパシーとエンパシーを分けるとすっきり理解することができることに気が付いた。

高校生までの僕は「シンパシー」で世界と向き合っていて、大学以降は「エンパシー」を使うようになったのだ。(ボランティアや旅行によく行くようになり、様々な人と交流するようになったのが大きいと思う)

シンパシーでは、自分と近い人としか仲良くなれないが、エンパシーがあると、立場のちがう人とも楽しく付き合える。これが楽しくて、大学生の頃の僕は、世の中の人は全員ともだち!状態だった。

とても楽しかったのだが、ひとつだけ問題があった。それが、「友達は多いはずなのに、自分の所属するグループが無い」というものだ。

たとえば卒業式などで、全員が集まってお別れを惜しむ会になった時に、たくさんいると思っていた友達が、急に見当たらなくなってしまう。

あれ。僕って誰と話せばいいんだろう。困惑しながら、結局最後まで話す相手が見つからずに孤独にその場を過ごすことになる。

大人になってからも同じで、普段は仲の良い人がたくさんいるはずなのに、多くの人がおなじ場所に集まると、僕は途端に孤独になる。

この現象がずっと謎だったのだが、そうか。多くの場合、僕はエンパシーで人とつながっていたのだな。ということがようやくわかった。

ぼくは、グループが苦手なのだ。なぜかと言うと、僕のエンパシーは少人数用なのだ。

ブレイディみかこさんは、イギリスの慣用句の「他人の靴を履く」という表現でエンパシーを説明する。相手の立場を理解するという意味で他人の靴を履く。これは非常に分かりやすい。

エンパシーが、他人の靴をはく行為なら、僕が履ける靴の数は限られている。1対1なら、自分の靴を脱いで、相手の靴を履くことができる。1対2でも、自分の靴を脱いで、片足ずつ相手の靴を履けばなんとかなる。

でも1対3になると、もう相手の靴が履ききれなくなる。そうすると、相手が何を考えているのかが途端に分からなくなってしまうのだ。だから僕が仲良くするのは、たいていの場合、1~2人だ。

でも、その1~2人には、たいていの場合、自分たちが所属するグループがある。なので、卒業式などでは、みんなが自分のグループで集まってしまう。すると、そこに僕の居場所はなくなってしまう。なぁんだ。そういうことだったのか。

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「わかるー」という言葉が苦手で、3人以上の集まりの会話でこの単語が出てくると、真っ先に逃げ出したくなる。

話の相槌としての「わかるー」が、僕には分かった試しがないのだ。これは僕だけが分からないのか、本当はみんなも分かっていないのか。どちらだろう。また、みんなの「わかるー」は、「シンパシー」なのだろうか。「エンパシー」なのだろうか。ぜんぜん分からない。

もし、それがシンパシーなら羨ましいとも思う。僕も「わかるー」って言いたいし、「わかるー」って言われたい。

でも僕は「わかるー」と人に言われると、「おれのことが分かるわけないだろ!(自分でも分からないのに…)」とも心の中で思っている。

思うに、エンパシーの土台は、「他者のことは自分には分からない」という前提で築かれている。分からないんだけど、一生懸命考えて推測して理解しようとすること。それが僕が理解したエンパシーだ。

エンパシーで考えたことは、常に間違っている可能性がある。その上で共感をする。

シンパシーは感情や衝動としての共感なので、相手が本当に何を思っているかとか、何を求めているのかは視野から外れがちになる。相手の問題というよりは、自分の問題として相手に共感していくことがしばしばだ。ここには危うさがある。

僕は、思想としては日本風リベラルになるのだが、リベラル同士で集まることは好まない。居心地がよくないことが多いからだ(※よいことも勿論ある)。

本当は、目指したい未来や政治信条が近ければ、一緒にいても楽しいはずなのだが、どうもそうとは限らない。

これはもしかしたら、日本のリベラルが「エンパシー」ではなく「シンパシー」で連帯しようとすることが多いからかもしれない。

「シンパシー」では、同じ感覚を共有するものや、自分より立場の弱い人へ共感する。リベラルには優しい人が多いので、頭で考えるよりも先に、感情が動いている人が多いように感じる。それは強さでもあるので、そのおかげでよくなったこともたくさんあると思う。なので、それが一概に悪いとは言わない。

でも、シンパシーは、自分でこの感情がシンパシーであると自覚していないと、考えが狭量になる。なぜこの辛い人の気持ちが分からない。この気持ちが分からないなんて人としておかしい!みたいになっている現場を僕はたくさん知っている。

狭量さとは真逆の価値観であるはずのリベラルが、ある日急に手のひらを返したように排他的になる場合、その集団がシンパシー的「わかるー」で繋がってしまっているケースが多いように思う。

シンパシーは大切な感情だが、社会のことを考える時には、エンパシーを使った方がいいのかもななんて思ったりもした。また、右のことは分からないが、これもまぁ似たようなものなのかなとも思う。

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最後にもうひとつだけ。

他者から見てどうかは分からないけれど、自分で思うに、僕は結構「エンパシー」が強い方だと思う。なので人の話を聞いてると、どんな話でも最後には共感していることが多い。

でも、この共感は「エンパシー」だ。共感はするけれど、自分ごとなわけではない。その相手が困っているなら出来る限りの助けにはなりたい。でも、その相手の人生を背負うつもりまではない。

僕が「エンパシー」で共感を向けた時、その相手が勘違いして、僕から「シンパシー」を向けられたと捉えられてしまうことがある。というか、かなりの確率でそうなる。

僕がシンパシーを感じていると思われると、すぐさま相手からは依存が飛んでくる。僕は、これを恐れている。僕は、他者と同一になるつもりは無くて、同一になれない立場から自分に出来ることを考えたい。でも、向こうは自分と同一になってくれる人を探している。

どうしてこんな齟齬が起きてしまうのだろうと、これもずっと悩んでいたのだが、これもシンパシーとエンパシーのちがいで説明できることに気付いた。

どう伝えたらいいかは分からないけれど、ぼくは「エンパシー」で共感しているんです。ということをちゃんと伝えられるようにしないとなと思う。

言葉は本当に大切だ。「共感」という言葉が「シンパシー」と「エンパシー」に分かれただけで、こんなにも謎がとけてしまった。

いま現在、僕が相手の靴をはける量は限られているのだが、本当はもっと多くの靴を履かないといけない時代に今はなっている。多様性の時代だからだ。

思わぬところに、自分が知らない価値観があり、そのすべてを侵さないように配慮して生きることが求められる時代だ。一見無理に感じるこのことも、シンパシーではなく、エンパシーなら可能かもしれない。言うまでもなく、学び続けることがそれを可能にする。

もっともっと様々なことを知りたいと思う。

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