unrequited

「いってきます」
アパート特有の金属性で分厚い扉を押しながら、玄関に立つエプロン姿の母に声をかけ、家を出た。
背後でガシャンという冷たい金属音を聞き、肩の通学鞄をなんとなしに掛けなおす。
外に面した廊下の、手すり越しに見える下界の景色は、朝の透明な光に照らされやけに明るく澄んで見える。
エレベーターを横目に手すりに手を添え階段を駆け下りた。
とんとんとんと、コンクリート製の段差をリズミカルに降りてゆく。
五階分の階段はなかなか距離があるが、降りるぶんにはそこまで苦にならない。
もうすぐ一階に到着という所で私は少しだけスピードを落とした。
なるべく音をたてないようにそっと歩く事を意識してコンクリートを踏む。
そして、あと一歩で一階のフロアであり、一階から数えて一段目という微妙な位置で足を止めた。

私は階段の壁にぴたりと背をくっつけ、頭を少し壁からはみ出させ廊下の様子を盗み見た。
同じ作りのドアが等間隔で静かに並んでいる。
特に変わった様子はない事を確認すると、頭を戻しその場に座り込んだ。
制服を着た女子が、公共の場で、しかも地べたに座るなどけっして褒められたものではないが、
これはいたしかたのない事なのだ。
どうか目を瞑って欲しい。

鞄を膝の上に乗せて、鞄の取手の根本にぶら下がるくまの人形ストラップを掴みこちらを向かせた。
腹のところで抱いている丸い時計を見る。
遅からず、だからといって早過ぎず。
私はその体勢で数分を過ごした。
ふいにガチャンと聞き覚えのある音がし、待ってましたとばかりに地べたから尻を浮かせた。
先ほどと同じ要領で壁に張り付きこっそり盗み見ると、いくつか並んだドアの一つからスポーツバックを肩から掛けた白シャツの男子が今まさに出て来ようとしていた。
その姿を確認するやいなや、ドキンと心臓が大きく脈打つのを感じ、隠れるように即座に壁に身を戻した。
明らかに脈拍が速くなっている。
顔が綻ぶのを抑えるのに必死だったが、いってきます、という男の声はしっかり私の耳に届き、それからこつこつと出入り口に向かっていく足音も聞き逃さなかった。
私は胸を押さえながら遠ざかる足音を聞いた。
聞こえなくなるのを待つと、一つ大きく深呼吸をする。
壁から背を離すと、足音の行く先を追った。

アパートを出ると十数メートル先に白シャツの背中がポツンと見えた。
息を飲んで、その背中の後ろを歩く。
周りは閑静な住宅街で、私たちのほかに同じ道を歩く人間の姿は今のところ見当たらない。
私は少しだけ足を速め、ゆっくりと距離を縮めた。
一番恐れるべき事は私の存在が気付かれてしまうことだ。
細心の注意を払い絶妙な距離を保つことに全神経を注ぐ。
距離感はこの数日間で掴んでいる。

学校まで徒歩十五分ほど。
そんな朝のほんの少しの時間が私にとって至福の時だった。
人気のある彼が唯一一人で居るのがこの時間なのだ。
言わば二人だけの世界。
目で確認出来るのはほとんどが彼の後姿だったが、たまに見せる横顔は私をときめかせたし、何より目の前に彼が居てくれるだけで十分だった。
白いシャツは彼の細い体のラインをやんわりとかたどっており、風で揺れる髪はさらさらとなびいて上質と思わせた。
少々だるそうな足取りも、欠伸をしながら目を擦る仕草も、全てが愛おしく、彼の一挙一動に胸を躍らせていた。
まさに幸せを噛み締めていたそんな最中、背後から騒がしい足音がして、私の横をすり抜けていった。
何事だと思ったときには、足音の主は前方の彼に「おはよー!」などと声を上げながら肩を組んで纏わり付いているのが見えた。
私は咄嗟に歩くことを忘れてしまった。
彼も驚いたようだったが、友人と分かると安堵したようでその後すっかり二人で会話を始めてしまったのである。
私はその姿を、下唇を噛み締めながら見ているしかなかった。
貴重な朝の時間はこうして突然の終わりを迎えてしまったのである。
乱入者は絶望する私に向かってニヤリと笑いかけた。
隣の彼は気付いていないようだった。

「お前さ、その悪趣味な行動いい加減にしたら? 」
席に着くなりそう声を掛けられ、顔上げて見やれば今一番会いたくない男がいた。
「ほっといてって。そっちもわざわざ邪魔しに来るなんて性格悪いんじゃないの。」
明らかに不機嫌を声に出して言うと彼は先ほどと同じ意地の悪い笑みを見せつけ私の前の席にどかりと椅子に対し身体を横にして座った。
「あんなこと毎日するより他に近づく機会あるだろ。なんなら俺が紹介してやるし。」
男は私の机に片肘を付きながら話す。軽い言動に私は握った両手で机を叩いた。
「そういう問題じゃないの! 段取りとか、ちゃんと欲しいというか……。」
「はあ?」
「分かんないなら良い!」
話の通じぬ分からず屋とはこれ以上は話す気になれず、肩を押して無理やり前を向かせた。
何か反論していたようだけど、窓の外を見て完璧に無視を決め込む。
乙女の心は打ち砕かれた。
この男と今日は一切口を聞かないと心の中で強く誓った。
最後に男は何かぼそりと呟いたようだが私の耳には届かなかった。

「本当、面白くねぇ。」


2010*


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