「器官なき身体」、あるいはドゥルーズの暴走

今日は思想系のお話。アントナン・アルトーの発見したイメージ、「器官なき身体」、フランス語ではCorps sans Organes で、現代思想の大スター、ドゥルーズが、CsOなどという省略記号を使いだし(「パリピ」とか「タピる」とかと同じ感じ🤣)、滅茶苦茶に、とはいえ凄まじくカッコよく展開した概念の概説です。

器官なき身体?器官って胃とか、腸とか、咽頭とか、膀胱とか、性器とか、肛門だよね?身体といえば、そういうものありきで成り立っていて、器官をなくした身体って何?意味わかんないんだけど。そんなもん考える必要性が見えません、アホか、頭おかしいんかー!!!➖➖➖全て正しいツッコミです。正常な反応です。

その通りです。狂っているのです。頭がおかしいのです。可哀想なのです。これはフランスの作家、劇作家、役者であるアントナン・アルトーが叫び出したことで、それをドゥルーズが哲学概念に仕立て上げたものです。「器官なき身体」…。

アルトーは生前9年間、6回も精神病棟に叩き込まれています。もろに戦時中のときもありました。食べるものありません。精神病練の患者、頭がおかしい社会のお荷物さん達に食べさせる余裕はありません。酷い状況でした。アルトーは飢えます。お腹が減って死にそうです。たしかに、「僕はキリスト教の聖人から杖をもらって、だからそれをアイルランドに返さなきゃ」とかいって旅行して旅行先で問題を起こして捕まりました。たしかに自分の名前を捨てて、「アントナン・アルトーは苦しくて死んだんだ、僕はアントナン・ナルパ(母親の旧姓)です」とか言い出してしまいました。日本人でもいったいどれだけの人がこんなことを思いついたでしょう。母親の旧姓を名乗る、つまり自分の苗字を変えたくなるくらい、精神的、肉体的に追い詰められて、自分のアイデンティティを捨てざるを得なくなった、そんな状況に追い込まれた訳です。

でもこんな体験を経て、新たに自分自身のアイデンティティを再発見し、再びアントナン・アルトーを名乗ることができました。長きにわたる狂気に苛まされ、そこから戻ることができました。そして言い出したのです。

「器官ほど余計なものはない」

何故か。器官は社会によってがんじがらめに縛られているからです。社会に意味付けられ、犯されているからです。我々の身体は、権威によって、警察によって、検閲済みです。アルトーの場合はなんといってもキリスト教です。キリスト教が身体に与える意味。性の禁止をはじめ、強欲の禁止、華奢の禁止、動物性の禁止などなど。そして権力による支配。王の前では跪け。口を開くな。排泄をコントロールせよ。嘔吐をコントロールせよ。などなど。

そんな身体への支配、理性の支配、権力の手先化から、身体を解き放つこと。器官なき身体。

ドゥルーズはこの概念を暴走させる。社会的、歴史的、人類学的スケールで、死のイメージとして、西欧的主体を突き抜ける概念として、暴走させるのである。

ドゥルーズの文学作品の読み方は本当に天才的です。僕はプルーストの研究者で、プルーストがフランスでどう読まれてきたのかをずっと見てきたけれど、ドゥルーズだけは読み方が異様にオリジナル。ドゥルーズのプルースト論を読んだ時には、なんと意外性に富みつつ説得的にテクストを読んでいくのか!と感動したもんです。まあ当時はよく分かってはいなかったのですが(あれ、今もかな?)。ある程度プルースト研究の全体像が分かってから思い至る点として、やっぱりこの人は異星人だということ。解釈が暴走してるのに的確で説得力があるのは、天才のなせるわざとしか言いようがない。この暴走は笑って祝福してするしかない。

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