タンゴとポリアモリー3

タンゴとポリアモリー2の続きです。

前回まで、日本文化のメインストリームと、ロマンティックラブ・イデオロギー(生涯ベストのパートナーは一人、その人と一生添い遂げて幸せな家庭を作る)がエラくずれている、というお話でした。

今回はそろそろタンゴを出そうかと思います。

アルゼンチンタンゴは悲しい踊りである。祖国を離れた出稼ぎ労働者の悲哀とフラストレーションがベースだが、そこに貧困、マイノリティ、外国人性、異文化融合、祖国を奪われた人の心の根の探求、アイデンティティの崩壊と再構築、みたいなテーマが結びつく。そんな通低音の上に、フラれた、家族が死んだ、思い出が壊れた、社会が滅茶苦茶だ、みたいな話が被さっていく。そんな音楽と歌詞の世界観であるが、そんな音楽を背景に、それでも二人で踊る、お互いを許し、認め合い、祝福する、そんな抱擁を音に乗せる、それがアルゼンチンタンゴであった。

そんなアルゼンチンタンゴだが、これは本質的に、ロマンティックでもあり、ポリアモリーでもある、と思われる。

相矛盾する要素を優しく包み込むアブラッソ(「抱擁」と訳されるが、ハグ文化のない日本ではうまく伝わらない。「相手の腕の中で眠る感覚」を思い出してもらったら、そちらの方が近いと思う)。アルゼンチンタンゴはアブラッソの踊りである。人間社会の矛盾を、感情の矛盾を、恋の悲哀を、運命の過酷さを、優しく、時に激しく包み込む、あくまで人間的な抱擁。

どんなに激しく足が絡み合っても、アブラッソは本質的に優しく、相手を探し、求め、コネクションを深く作らなくてはならない。

その踊りは、ロマンチックでもあり、かつポリアモリー的でもある。

まずはロマンチックの方から。
タンゴは基本的に二人で踊るダンスである。2人の関係性、2人の世界、2人のコネクションを見せる踊り。そこには高密度の身体コミュニケーションが存在する。コンマ何秒の間にお互いの間で交わされる身体のメッセージ。それはあくまで2人の空間であり、お互いがどこまで相手の意図を汲んで相手のことを考えられるか、という勝負であり、挑戦である。パートナーは目の前の人ただ1人、それは非常にロマンティックな関係でありうるし、そのケースも多い。

しかし、タンゴは基本的にポリアモリー的である。タンゴパーティーであるミロンガでは、3,4曲踊るごとにパートナーを交代する。恋人とミロンガに来る人もいるが、二人だけで踊るならパーティーに来る意味はあまりない。恋人と来たとしても、気が向けば別の人と踊る。そして踊る間は、全力で相手のことを考える。自分のプライベートスペースに相手の侵入を許すだけでなく、自分の体の中心を相手に委ね、2人の軸を作り、2人の呼吸、重心、丹田を合わせていく。お互いがお互いの抱擁に溶け合い、音楽の中に溶けていくことを目指す。

それはセックスでは決してない。性器の結合とは何の関係もない動作である。にも関わらず、タンゴはセックスよりも遥かに深く相手の身体の中に侵入する。自分の重心と相手の重心との掛け合い、ミリ単位、コンマ単位のコミュニケーションが続き、より一体になることを目指す。それが音と溶け合うと他では得られぬ快楽が生まれ、快楽物質が脳から放出される。タンゴとはそのようなテクニックの集合体である。

そこにあるのは、基本的に、相手への感謝であり、祝福であり、存在の肯定である。そして、その相手の相互承認と快楽の踊りは、見ている人をも幸せにする。そんな感覚のシェアを、フロア全体で、パーティーの中で、皆が自然に目指すのである。

アルゼンチンタンゴという文化は、紛れもなくポリアモリー的である。厳しい政治状況、経済状況、運命の過酷さの中で、コミュニティの支え合い、友情、敬意、愛情を増殖させ、シェアする。そんなシェアの文化である。

そんなビジョンを実際にタンゴの振り付けで表現してみました。感想お待ちしてます。

次回はそんなタンゴを男女間の問題、ジェンダーから解放する踊りの話です。

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