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#宮崎鈴子の向き合うことでたどり着いたこと



これは、あくまでも持論である。
去年のFacebookから発信に始まり、自分自身と対話する機会が増えてきた。
それは良くも悪くもとも言えるのだが。
向き合うというのは、良い面を知れてスッキリするが、
悪い面で自分の見たくない部分も突きつけられた状態を見なければならない事だって多くある。
去年からそういう機会も多く、「向き合う=原因や答えのあら探し」に至ってしまう事だってあった。
そんなの向き合うもクソもなかった。
”向き合う”ということばでさえも、怒りや限界を感じていた。
周りも”向き合う”に必死があまり出来ていないだの指摘や批判も浴びせられた。
はっきり言わせれば「てめえこそが出来てねえんぢゃねえのか」
「てめえが人の事を言ってる場合ぢゃねえだろ」と思う。
このように日々生きていく中で振りかえったりも多くある。
ならば、向き合うというのを別でどのようにとらえたら良いかをまとめてみると。
①良くも悪くも出来事を”体感&経験する”

②体感&経験した上で”知る”

③知った上で”納得する”

④さらには言葉にしたければ、納得した上で”伝える”
で良いと思う。
結局向き合うと言ったって自分が体感と経験をすれば良いんだし。
自分が知れば良いんだし。
自分が納得すればいいんだし。
それで充分だと思う。
そもそも”向き合う”という言葉が重くて嫌いで飽きたし疲れた。
結局、自分自身を知っておかないと意味がないから。
それに自ら「向き合い」にこだわっている奴等ほど、対して出来ていないし、
人に向き合えと言うタチではない。

#もう向き合うというとらえ方を辞めた

#向き合うは単なる答えと原因の粗探し

#体感と経験をすればいい

#知ればいい

#納得すればいい

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