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【小説】#1.5 怪奇探偵 白澤探偵事務所|歪みのコインと探偵助手|閑話

 事務所に帰る前に、ファミレスに寄った。弁当とサブメニューとお茶を選び、テイクアウトにしてもらう。ファミレスの飯はテイクアウトできると白澤さんに教えたら大層びっくりしていた。代金は、白澤さんに甘えた。
「腹へった……白澤さんは?」
「私は夕食を済ませているから、気にしないでいい」
 事務所についたら二階へ、と言われて足を速めた。空腹は人を急かす。一階が事務所で、二階は白澤さんの住んでいる部屋だとさっき聞いた気がする。なるほど、ご飯を食べるのは仕事をする部屋ではなく、生活する部屋でということか。正直、さっきファミレスに入って食べ物の匂いを嗅いだ瞬間から空腹で思考が鈍い。
 白澤探偵事務所は、外見の壁ほとんどを蔦に覆われている。掃除をさぼっているんだ、と冗談なのか諦めなのかわからないようにつぶやく声につい笑ってしまった。鍵を開け、事務所へ入る。つい数時間前に来た場所なのに、妙にほっとした。
 階段の電気をつけて先に上がる背中へ続く。ぱちりと電気が付き、部屋全体を見渡せば目立つ家具はテレビとソファーくらいしかない。
「そこのソファー、使って」
 適当に返事をして、ソファーに座る。部屋に別の椅子はないらしく、俺の隣には白澤さんが座った。腹の虫はもはや咆哮では済まないほど鳴いている。
「いただきます」
 腹に貯まりそうなものを適当に選んだ。ご飯が多いやつとか、肉がたくさん噛めそうなのとか、そういう具合だ。サブメニューのほうれん草グリルとから揚げもつけて満腹仕様である。
「……早速質問なんすけど、探偵事務所って具体的に何やるんすか?」
 から揚げをひとつかじり終わって、隣に尋ねる。
 探偵事務所で、探偵の助手をするというのはわかった。助手として何をすればいいのかの前に、そもそも探偵という職業について詳しくない。フィクションの探偵となると、血なまぐさい事件や、胡散臭いSFが鉄板のような気がする。
「人探し、もの探し、浮気調査、身辺調査が主だ」
 何というか、地味だ。ほうれん草に手を伸ばす。ベーコンがうまい。くたくたのほうれん草もうまい。空腹で、今食べる大体のものは美味い。
「土地の周辺調査とか、噂の追跡が多いから、地方出張もある」
「へえー、土地……」
「周辺にトラブル起こした人がいないかどうかとか」
 なるほど、これから住む土地に何度も通うことが難しい人とか、売る土地の評価が気になるとか、そういう人が調べるのかもしれない。具体的な業務のイメージは湧かないが、基本的には対人業務なのだろうことはわかった。助手であるから、白澤さんのサポートが主だろうけど。
「……前に働いてた方とかって……?」
「求人募集は初めてでね」
 白澤さんは組んでいた腕を解いて、ペットボトルのお茶に口を付けた。前任者というものがいると引き継ぎの業務がどうのこうの、というのは過去に渡り歩いてきた職場で何度か耳にしたことがある。
「探偵助手に何をやってもらうか、というのは都度考えることになると思うが、野田くんに負担のないようにするつもりだ」
 ホワイトである。白澤さん、苗字に白が入ってるからですか、なんて軽口の一つも言いたくなったがぐっとこらえた。何しろ上司一人、部下一人、たった二人の職場だ。まだ初対面の空気も抜けない中でふざけるのはあまりよくない。
 ふと、条件面のことを思い出した。土日祝休みとか、有給とか、そういうものと一緒に住み込み可、の文字があった。毎日あの駅から徒歩二十分の家を出て新宿に通う負担を考えると、いっそここに住まわせてもらう方が長く勤められる、気がする。
「そういえば、住み込み……でお願いしたいんですけど、どんな感じ……になりますか?」
 からあげとほうれん草がとっくに消え、弁当も残りわずかだ。白米が若干足りなかった。ミックスグリルのソーセージをかじりながら、恐る恐る尋ねてみた。
「まず生活フロアが同じになるのだが、それは構わないかな」
 曰く、今は三階を倉庫として使っていて、住み込み希望で別のフロアが良い場合は倉庫を片づけてからになると言う。ただ、キッチンと風呂はこの階にしかないので、どちらにせよ生活空間はほとんど同じになる。
「それは全然、共同生活は経験あるんで大丈夫です」
 プライバシーがほぼなかった漁船に比べればだいぶマシだろうと思う。上下のベッドで下世話なやり取りもあれば、誰かに自分の寝床を占領されていることもままある。そういう無秩序な船に乗ってしまったのは、恐らく自分の不運が原因だけれど。
「では、私の隣の部屋を使ってもらおうかな……そこは洗濯物の部屋だからすぐに片づけられる」
 洗濯物の部屋。突然出てきた妙に生活感のある言葉が面白く、口に出して繰り返してしまう。洗濯物の室内干しに使う部屋、という意味だろうか。ビル風で飛ばされるとか、防犯上の都合で生活の気配を外に出したくないとか、そういう理由があるのかもしれない。
「キッチンは自由に使ってくれて構わない。私はコーヒー淹れるくらいしか使わないから」
 香の物まで平らげ、ようやく腹の虫が満足をしている。弁当を流しがてらキッチン見れば、確かに使用された形跡があまりなかった。炊飯器も電子レンジもなくて、ケトルだけが鎮座している。コーヒーもインスタントらしく、パッケージがいくつか並んでいるだけだ。
「……炊飯器とか、電子レンジとか、その辺は備品として?」
「明日ビックロで買うといい。冷蔵庫のサイズは一人用だから、もし料理をするのであれば君が使いやすいものにして構わない」
「……明日、一緒に行きません? さすがに俺一人だと……」
「わかった」
 明日はアポがないから大丈夫、という鷹揚さに、俺だけがびくびくしている。倉庫の片付けなんてのは引っ越しの荷造りバイトとそう変わらないだろうから苦じゃないが、こと額の大きい買い物には弱い。金を持っていないから、という理由があるからだが。
「ベッドとか、買っておこうか」
「え、いや、布団で十分ですよ」
「床、冷たいだろう? 風邪ひくかもしれない」
 俺のこの図体を見て、床で寝たら風邪をひくと真っ当に心配してくれる人はあんまりいない。白澤さんは君の身長だとシングルじゃはみ出るね、なんて言ってタブレットで早速寝具探しに忙しい。領収書がどうのこうのはおいておくとして、くらくらしてきた。ソファーに戻って、べったりと背中を預ける。身体がだるい。疲労で足が重い。満腹になった途端、眠気が押し寄せてきた。
「色々必要なものが出てくると思うから、野田くん、これ」
 白澤さんが、ぽんと封筒を一つ渡してくれた。口を開けてひっくり返せば、輪ゴムで止めてある万札が出てくる。押し寄せた眠気が秒で吹っ飛んだ。万札。輪ゴムで雑に止めてある万札が、適当にその辺にある茶封筒に入って渡されるなんて、そんなことあるだろうか。ない。今までの人生において、そんなことはなかった。
「え、これ」
「当座の資金というか」
「いや、え、待ってください? 俺が引っ越しをするんだから、俺が出すのが筋……だと思うんですけど」
「うちに勤めるために引っ越しをしてもらうのだから、ここは私が出すところだと思うが……」
 恐る恐る札を数える。福沢諭吉が五十人。少し、眩暈がした。白澤さんがそう言うのだから、正しいのかもしれない。わからない。社会をよく知らないから、俺には言われた通りこれを受け取ることしかできない。
「……これ持ってバックレるとか、思わないんです?」
「ああ」
 言われて初めて気づいたみたいなリアクションをされて、また驚いた。もしかして、この人はちょっと変わっている人なのではないだろうか。いや、探偵事務所に正しいとか普通とかいう文言が似合うかといえば似合わないから、どちらかというとイメージ通りの探偵という人かもしれないが。
「野田くんに長く勤めてもらえたら嬉しい、と思っていたから」
 ちょっと浮かれすぎかな、と言われると何も言えなくなった。万札を封筒に戻し、震える手でぎゅっと握る。これは落とせない。財布にねじ込むにしても怖すぎる。腹にでも入れようか。とにかく、とても歓迎されている、ということはわかった。期待されていることも。不思議と重圧には感じなかった。ただ、自分の知らない世界に飛び込んだことが、少し眩しかった。
「……お世話になります」
 小さく頭を下げれば、白澤さんはやわらかく笑う。
「合鍵は作っておくから、引っ越しの後で」
 新しい生活の気配がする。悪いことがないといい。働くことは嫌いではない。長く続くような生活であれば、なお良い。今はただ、新しい生活の気配と、手元の茶封筒だけが一つの約束のかたちをしていた。

 引っ越し当日、自室に設置されたベッドの立派さに驚いて立ち尽くしてしまい、ベッドを探しているうちにテンションがあがって一番良いものを選んでしまったという白澤さんがあまりに楽しそうだったので、頑張って働こうと改めて決意することになった。