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【小説】#1 怪奇探偵 白澤探偵事務所 | 歪みのコインと探偵助手

あらすじ:フリーター・野田ひろみは新宿駅まで辿り着けないという男に声をかけられ、道案内を申し出る。十分もあれば駅にたどり着くはずなのに道に迷い、さらには男の持つコインを巡ってひと悶着。男から逃げ出し、逃げ込んだのは「白澤探偵事務所」と書かれたプレートのあるどこにでもある事務所だった。オーナーを名乗る白澤からとあるゲームを持ちかけられ……。
すこしふしぎ系、探偵と助手のシリーズものになります。BL未満。バディもの。

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 結局、この街は人なんかどうでもいいのだ。
 さっきまで俺がティッシュを配っていた場所で別の誰かがチラシを配っている。ティッシュだろうが、チラシだろうが、誰が配ろうとそう変わらない。何を配っているかだって、誰も気にしていないだろう。差し出された何かを無視して、駅へ向かうくたびれたスーツの群れを逆行していく。
 秋も深まり、街の中にはちらほらとコートも目立つようになってきた。肌寒いと思う日もあるが、歩いているうちに暑くなるからまだパーカーで十分足りる。
 信号を待つ間、ぼんやりと立ち止まっているだけで不躾な視線を感じて、パーカーに顔を埋めるように俯いた。随分昔の事故が原因で、顔の右側に大きな跡が広がっている。顔に残る傷跡は興味と哀れみの視線を集めやすく、無関心を装う街の沈黙が煩わしい。ただ生きているだけで、そんな目で見られるというのが面倒で、俯いて歩くのが癖になっていた。
 デニムのポケットには今日の報酬が入った封筒があり、そこそこ腹が減っている。腕時計を見る。十八時を過ぎていた。空腹のまま帰るのが億劫だったが、一人客に優しい定食屋だのそば屋だのが見つからない。
 新宿の街は夜になると浮かれ始める。夜がもっと深くなると、ぎらつく。あまり長居したい場所ではないが、東新宿まで歩かねば家に帰る電車に乗れない。新宿駅からの僅かな電車賃を浮かすために、仕方がなく歩いていた。
 花園神社を過ぎ、いくつかのファミレスに入店を待つ人たちを見つけ、空腹を抱えたまま帰る覚悟を決めた。待っているうちに動けなくなりそうだった。
 全面ガラス張りの銀行の角を曲がれば、表通りに比べて人はぐんと減る。あとは、この道をまっすぐ歩くだけで東新宿駅に着く。細い歩道をのろのろと歩いた。
 突然、目の前を歩いていた男が振り返った。
「あの」
 男はプリントした地図を片手に持っている。じ、と視線をやれば、びくりと体を震わせた。視線が顔の右側、傷の残る方から急に反らされるのがわかる。ぎょっとされるのも慣れはしたが、いい気持ちはしない。
「何すか」
「……道に迷ってしまって。新宿駅へ行きたいのですが」
「逆方向だよ」
 地図を見るまでもない。このまま直進し続ければ、東新宿駅に着いてしまう。
「どちらへ行けば……?」
 困り顔の男が持つ地図をのぞき込めば、夜行バスの発車時間が載っていた。発車時間までは三時間ほどある。地図を見ながらこんなところまで来るのだから、この男は相当な方向音痴に違いない。道を教えたとして、三時間後の発車時刻に間に合うかどうかと言えば、怪しい。
「……一緒に行きましょうか」
「え、そんな……」
「いいっすよ」
 助かります、と頭を下げられ、頬を掻いた。慣れないことをしている自覚はあったが、人助けをして悪いということはないだろう。それに、どちらかと言えば自分のためだ。うまく案内できる気がしないから、それが一番手っ取り早いというだけのことだから。
「あの、人ごみだと……見失ってしまいそうなので、こちらの道からでも?」
 男は大通りへ戻る道ではなく、裏路地を指さした。よく見れば、大型のキャリーカートを持っている。ここまで来る間に人に引っかかって相当苦労したと見える。路地裏を通ろうが、新宿駅が動くわけでもない。構わないと言えば、男はほっとした様子で歩き出した。
 新宿は、表通りから一本入れば大小さまざまな店が連なるエリアがあり、さらに深くへ立ち入れば静かな住宅街へ姿を変える。自転車便のバイトで何度か通ったことがあるものの、入り組んでくるとここがどこなのか一瞬混乱することがあった。
「……このあたりで働いていらっしゃるんですか?」
「いや、別に。バイトで」
「そう……ですか、いえ、迷わず歩かれるので……」
 男は沈黙が辛いらしく、よく喋った。お世話になった先生に乞われて学会を手伝いにきたこととか、その学会の発表が素晴らしかったとか、云々。興味がないのでそのお話は大丈夫ですとはさすがに言えず、時々相槌を打ちながら歩いた。
歩く。歩いている。
 何となく、違和感があった。
 すぐに歌舞伎町が見えてくるはずなのに、あのぎらぎらした電飾の群れにたどり着かない。通りを一本間違えたのかもしれないと角を曲がっても、その場をぐるぐると回り続けているような感じがする。
十分もあれば新宿駅に戻れるはずなのに。
 背後で小銭が床にたたきつけられた音がして、はっと振り返った。男の財布が落ちたらしく、あたふたと拾い集める背中が見える。結構な枚数が飛び散ったらしい。これを拾い終わったら自分も迷っていることを告げて、スマホで地図なり何なり調べた方が良いと話そうと決め、散らばった小銭を拾い集めた。
「あ、すみません……」
「いえ」
 日本円に交じって、見たことのない硬貨が混ざっている。五百円玉と百円玉の間くらいのサイズで、銅色をしている。両面に数字がなく、見慣れない紋様が刻まれている。人物ではないし、植物でもない。一体どこのものだろう。
「それ」
「あ、すんません……見たことなかったもんで、つい」
 男に拾った小銭を手渡そうとしたのだが、小銭を持つ手をがっしりと握られた。指の隙間から、せっかく集めたそれらが落ちる。道路にけたたましく小銭の落ちる音が響く。誰もそれを拾わない。違う、ここには誰もいない。新宿なのに?
「そのコインに気が付くなんて! 君、それは何だと思う?」
「金でしょ、ただの。手、放してください」
 男の目がぎらぎらと光っている。放さないどころか、じっとりと汗ばんだ手がまとわりつくようで、やばいものに触ってしまったかもしれない、と少し後悔した。どうやら、この街は人に親切にしてもいいことがないらしい。男は早口で何かを言っているが、知らない言葉が多くて意味がわからない。
「放せって、もういいから」
「いいやだめだ、これの価値は君にもわかるはずなんだ!」
 喋りすぎて男の口元には唾が泡立っている。ぎらぎらと光る目は俺へまっすぐ向いているし、止めろと言っても全く聞き入れる様子がない。
 さすがに、危機感を覚えた。
 図体はこっちのほうがでかいしいざとなれば蹴っ飛ばして逃げようという腹積もりはあったが、実際その場面が来るとどうしていいかわからなくなるものらしい。
 人通りはなく、表通りは遠い。周囲は暗いビルばかりで声を出しても誰も出てきてはくれないだろう。自分で何とかしなくちゃ、だめだ。誰も助けてくれないのだから。
「いいって……言ってんだろ!」
 腕を捻り、相手の掴む力が緩んだところで腕を引き抜く。
 ここから、離れなくては。反射的に走りだせば、背後からあっと間抜けな声が上がって、それから待ってだのなんだのと騒ぐ声がする。ばたばたと追いかけてくる足音が続いて、背中にだらりと冷たい汗が伝った。
 誰かいないか。いない。開いている店は、電気のついている家はあるか。ない。
 探しながら、とにかく走る。入り組んだ路地を走り、角を曲がる。路地の端、蔦の生い茂る古臭い建物の一階に明かりが灯っているのを見て、立ち止まった。銀色のプレートには「白澤探偵事務所」と書かれている。
 足音が近づいてくる、気がする。とにかく今はどこでもいいから隠れて、あの男をやり過ごしたい。どうにでもなれと、事務所の扉を開いた。
「あのっ、すいません……!」
 後ろ手にドアを閉めながら、部屋の中へと声をかける。事務所の中はこざっぱりしていて、探偵事務所、という言葉からイメージした室内の様子とは少し違っていた。
「何か、ご用事ですか」
 部屋の奥から、低い声が聞こえた。床をコツコツと叩く足音。迷子のヤバい人の次は、探偵のヤバい人だったらどうしようと一瞬考え、頭を振ってその考えを否定した。そんな不幸はあってほしくない。
「変な人に、おっかけられてて……匿ってほしいんですけど」
 全速力で走って、息が上がっている。足を止めたら汗が滝のように流れてきた。額を伝う汗を拭い、顔を上げる。
 奥から出てきたのは、すらりとした青年だった。さらさらとした黒い髪が肩の上で切りそろえられ、室内であるのにサングラスをかけている。色の薄いレンズの向こうに見える目があまりに鋭く、思わず目を逸らしていた。
 青年は自分とあまり年が変わらないように見える。彼が、この事務所の探偵なのだろうか。探偵というと中年男のイメージがあるが、目の前にいるこのひとは、あまりにも見目が整いすぎている。探偵事務所という名の別れさせ屋とか、ホストの待機場とかではないだろうか、とくだらないことが頭を過った。
「人が来たら困るのであれば、鍵を」
「……ども」
 匿ってくれるらしい。自分が入ってきたドアの鍵をかけ、ようやくほっとした。不法侵入者として追い出されなくてよかった。
「応接室にソファーがあるから、そっちに」
「……すぐ出ていくんで大丈夫です、すいません」
「いや、しばらくここにいたほうが良い」
 彼はちらと外を見て、窓のブラインドを降ろした。外に何が、と窓に近づけば、ついさっき撒いた男の声が聞こえる。
 ――おにいさん、どこへいったんですかあ。おにいさあん。
 思わずびくりと体が震える。執念がありすぎやしないだろうか。たかがコイン一枚に何があったというのだろう。理解できない。できるわけがない。ぞっとして窓から離れる。
「私はここのオーナーで、白澤と言う」
「オーナーさん」
 スタッフか何か、もしくはホストの待機場だと思っていたついさっきの自分は一発殴られた方が良いと思う。白澤さんは名刺を一枚渡して、応接室のソファーへ案内してくれた。今度は、どうやらまともな人に遭遇できたと思ってよさそうだ。
「時間潰しにちょっとしたゲームはどうかな」
「ゲーム、ですか?」
「走って疲れただろう? 休憩も兼ねて……怖い思いもしただろうし」
 白澤さんはお茶の入ったマグを置き、それをどうぞとこちらへ差し出してくれた。いつの間に用意してくれたのだろう。湯気は立っているけれど、熱くない。走って汗だくなのに妙に冷えている身体が、熱に触れてようやく緊張が解けていくのを感じる。ソファーに背中を預けると、どっと疲労が湧いてきた。
 怖い。人に言われて初めて、あの危機感は恐怖からなのだと理解した。未知のものに遭遇して何が何だかわからないうちに走り出していたけれど、逃げきれなければ何をされていたのだろう。こういう余計なことを考える間がないようにゲームを提案してくれたのかもしれない。探偵って心を読むのが仕事なのだろうか。
「します、ゲーム」
 白澤さんは小さく微笑みながら俺の前の席に座り、四枚の硬貨を並べた。それぞれ、一円、十円、百円、五百円の硬貨が並ぶ。
「これを一枚ずつ私の手の中に隠して、どちらの手に入っているか当てる……というゲームなのだが、どうだろう?」
「じゃあ、白澤さんが隠してる間は見ないんで」
 目を閉じる。顔の右側、傷のある瞼がひきつったから、片手で瞼を押した。そういえば、白澤さんは俺の顔を見ても一切怯まなかった。じろじろと見られるか、見ないように気を付けています、ということばかりで、今まで気付かなかった。
「うちはこれを採用面接でやってるんだ」
 目を開けて、と言われて開く。テーブルの上からは一円玉が消えている。白澤さんは両方の手をテーブルに置き、俺の答えを待っている。
「採用面接で、コイン当てって……運じゃないですか?」
 何となく、右を指す。右手が開かれて、そこには一円玉があった。当たると少しうれしい。
「運も大事な仕事だから……君、名前は? 良ければ採用試験としてゲームを続けようか」
「野田ひろみ、です。採用って、何のスタッフ募集で?」
 自分の名前を外で名乗ることはあまりない。ひろみという名前と、自分の容姿のギャップが面白いのか、よくからかわれたからだ。身長百八十強、ちょっとやそっとでは壊れない丈夫な身体は引っ越し作業の現場に入れば重宝される。それと、ひろみ、という柔らかな名前は、あまりにも開きがあった。
 白澤さんは特に笑うでも突っ込むでもなく、野田くん、と俺を呼ぶ。次のコインに移るらしい。また、目を瞑った。何も見えなくなる。
「助手が欲しくてね」
 冗談がうまい探偵さんなのだろう。ゲームが採用面接で、今から試験にしようだなんて。目を開ける。次は左を選んで、外れた。二分の一だから、外れることも当然あるだろう。また目を瞑る。
「次はコインを変えてみよう」
 テーブルに出ていた百円と五百円の出番はないらしい。目を瞑っているから何のコインかはわからないが、一度頷いておく。何が入っていようが、結局左右どちらかを選ぶだけだ。
「野田くん、選んで」
 目を開いた瞬間、自然と手が動いていた。白澤さんの右手。何かがある。
「……長く考えてもわかんないんで」
 なんで体が勝手に動いたのかわからない。わからないまま、言い訳をした。白澤さんは二分の一だからね、と言って右手を開く。そこには、銅色のコインが乗っている。見覚えがある紋様だ。
「このコインであと三回やろう」
「……三回も?」
「意味がある三回だ」
 マグカップのお茶を一口飲んでから、コイン当てを三回繰り返す。銅色のコインになってから、不思議と目を開くだけでどちらに入っているかが何となくわかった。一回目は右。二回目は左。
 三回目。目を開く。テーブルの上を見渡して、思わず笑ってしまった。
「コイン、手の中にない……ですよね?」
 白澤さんは観念したように両手を開く。右にも左にも、あのコインはない。ポケットに隠していたらしく、銅色のコインがテーブルに出てきた。さっき、男が落としたコインと全く同じ紋様だ。
「……野田くん、このコインをご存知かな」
 白澤さんの口調は、どこか固い。
「これ、ヤバいやつなんですか、もしかして?」
 闇カジノとかそういうものだろうか。尋ねれば、白澤さんはうーんと小さく首を捻る。このコインについて、この人は知っている。知っているのなら、さっきの男にしつこく追われた理由も、もしかしてわかるのではないだろうか。
「……その、実は」
 かいつまんで、さっき自分の身にあった話をした。方向音痴の男を新宿駅まで送っていこうとしていたこと。男と歩いているうちに新宿駅にたどり着けなくなってしまったこと。男がこのコインを落とし、拾ってやったら異常に食いつかれたこと。その勢いがあまりに恐ろしく、逃げてきてしまったこと。白澤さんは辛抱強く俺の話を聞いて、なるほど、と唸った。
「このコインは、特別な用途のものでね。あんまり外で見かけるような代物ではないんだ」
「そう、なんですか」
「ところで、野田くん……さっきの採用試験なのだが、合格だ」
 は、と思わず声に出してしまった。冗談ではなかったのか。
「条件面を確認して欲しい」
 テーブルの上に契約書が乗る。ティッシュ配りだのチラシ配りだので食いつないではいるが、前職はビアホールの厨房をバックれ、さらにその前は漁船に乗り、と定職についた試しがない。さらりと条件を読む。契約書と、白澤さんの顔を交互に見る。
「ホワイト」
「特殊な職業だから、そのあたりは手厚いと思う」
「コイン当てただけで……?」
 これも冗談なのだとしたら、少し質が悪い冗談だ。じりじりと金を失っていく生活に疲れた身としては、本気にして飛びつきたい気持ちもある。
「もしコイン当てだけで採用されるのが不安なら、探偵助手体験をしてみるかい?」
「……今から?」
「そう、今から」
 白澤さんはここで待っているようにと言って、二階へ上がっていった。
 オーナーである彼の姿が消えてから、契約書へかじりつく。週五日勤務、土日祝休み、十時から夜十八時まで、残業代は別途支給、有給も夏休みも年末年始休暇もある。深夜手当と土日祝の出勤の代休と、住み込み可の文字を見つけて思わず机に伏せてしまった。
 この条件で仕事が決まったのなら、今頭を悩ませていることの半分は解決する。定職と家だ。
 今の家は、豊島園から徒歩二十分と不便な立地にある。自転車駐車場と家賃を合わせて相場より少し安いかなという程度で、寝に帰るにしては駅から遠すぎ、かといって自宅周辺の仕事を探す気にもなれず、更新を来月に控えて物件探しと引っ越しの資金作りのためにバイトに勤しんでいた。
 家と仕事が一挙に手に入る探偵助手という仕事は、どういうものなのだろう。
「野田くん」
「っ、はい!」
 契約書の上に伏せていた体を起こし、立ち上がった。声の方を向けば、トレンチコートに身を包んだ白澤さんが立っていて、目を丸くしている。
「……前向きに検討してくれて構わないよ」
「……や、それは、ええと……体験の後に相談させてください」
 探偵助手が何をやるのか知らないし、と言い訳のようにしているが今までも知らない現場にばかり飛び込んできたから、ある程度は対応できる自信があった。ホール接客で採用されたはずなのに気付けばキッチンで料理を作っていたとか、荷物運びで採用されたはずなのに漁船でマグロの管理してたとか、そんな具合に人生を過ごしている。
「それじゃ行こうか。さっきの人は、コインを失くしたんだとしたら新宿駅に戻れていると思う」
 応接室を出て、白澤さんについて外へ出る。さっき走ってきた路地と、何となく印象が違う。飲み屋の明かりと、通り過ぎていく人たち。歌舞伎町方面から漏れるぎらぎらした電飾がここからでも確認できる。
「よろしく、お願いします」
 事務所の明かりが落ち、鍵が閉まる。白澤さんのサングラスの奥にある目が、きらりと光った気がした。

「さっき見てもらったコイン、ちょっと特別なものでね」
 白澤さんはポケットからさっきのコインを一枚、取り出した。銅色で、見たこともない紋様という以外にはついさっきのヤバい人のイメージしかない。
「保管方法を間違えると、その辺の磁場を歪めて道をぐにゃぐにゃにしてしまうんだ」
「……なるほど?」
 いつまでも新宿駅に辿りつけなかったり、見たことのない道を延々歩き続けたりする羽目になったのはこのコインのせいらしい。荒唐無稽な説明ではあるけれど、自分の身に降りかかったことに照らし合わせると納得がいく。
「それで、野田くんを追いかけていた男がこの辺にそれを落としてしまった」
「ぶちまけてましたね」
 そこにあるだけで磁場が歪むらしいコインが、新宿に落ちている。
「……迷子続出ってこと、ですか?」
「そう、だからそれを探して回収するのが今日のお仕事」
 それは、俺があの男を連れてうろうろしなければ起きなかったのではないだろうか。コインが落ちたのはあの男のせいとしても、俺を追いかけている間にまたコインを落としたのでは、くらいは想像に容易い。つまりは後始末だ。しかし、新宿の路地裏をあてどなくコインを探して歩くというのは、不毛すぎる気がする。
「さすがにくまなく探すとなると難しいから、野田くんの力を借りたい」
「そりゃ、全然かまわないですけど。路地裏全部見て回るってことですか?」
「もっと簡単に済む」
 白澤さんにコインを一枚、手のひらに落とされた。金属のひやりとした感触がある。
「君にはこのコインがどこに落ちているか、なんとなくわかるはずだ」
「……いやいや、そんな。超能力者じゃないんだから……」
 頭半分低い位置から俺を見上げる白澤さんの目は、冗談でもからかいでもなく、本気で言っているようだった。
「さっきもコインがどっちの手にあるか、わかっただろう?」
 それは、右か左かという単純な二択だったからだ。そんなことがわかるわけない。同時に、白澤さんがそこまで言うなら試してみようか、とも思う。この人の言うことに嘘はないだろうと、何となく、信じられるのだ。
 手のひらにあるコインを握る。手のひらに食い込む金属の感触を確かめて、ちらと白澤さんを見た。彼は俺がそれを見つけることが出来るのは当然なのだ、とばかりに涼しい顔をしていた。
「……目で見てわかるような感じなんすかね」
「目を閉じて歩いてみても構わない。危ないから手を」
 白い指先が、コインを握っているのと反対の手を取る。男二人が手をつなぐというのは、はたから見たら奇妙に映るだろう。この人は迷いがないというか、気にしていないのだろうか。
「じゃあ……適当に歩いてみます」
 目を閉じる。夜が更けていたから、目を閉じても、開いていても、あまり変わらない。不思議と自然に歩き出すことができた。自分の手の中にあるコインが原因でひどい目にあったというのに、初対面の人の手を握って暗闇を歩いている。不思議だ。知らない男に手を握られる、というのは全く同じなのに。
 しばらく、適当に歩く。目を瞑って歩くとふらふらするものだけれど、自分の足は思いのほかまっすぐ進んでいく。
「野田くん、半歩右に。電柱がある」
「あ、ども」
 道の端に寄っていたらしい。半歩右へ踏み出して、ぱちりと目を開く。スニーカーの裏に、何か、固い感触がある。そろりと足をどかす。少しの間目を瞑っていたからか、暗闇でよく見えない。
「白澤さん、たぶん、これ」
 拾い上げて、手のひらに乗せる。スマートフォンのライトをつけて照らせば、すでに手のひらにあるのと同じコインがあった。
「うん。あと、何枚あるかわかるか?」
「……ちょっと、歩きながら考えます」
 二枚のコインを手のひらに入れて、再び目を瞑って歩き出す。そこにあるのがわかるというか、目を瞑っているはずなのに、そのコインがあるあたりに視線を向けると周囲が明るく感じるのだ。目を閉じたまま太陽を見上げているような。
 目を瞑ったまま、ぐるりと周囲を見る。明るい、と感じた方向は二か所あった。じ、と明るい方向を見ながら、手のひらのコインを握りなおす。
「あと二枚?」
「……うん、ちゃんと見えている。その二枚を回収したら、体験は終わりだ」
 白澤さんも枚数は把握できていたらしい。体験というか、まだ採用テストの途中なのではないだろうか。
 段々慣れてきて、目を瞑っていなくても場所がわかるようになってきた。ポケットの中にごちゃごちゃに入れたものを探って出す、みたいな感じだ。
 しばらく、白澤さんと一緒に新宿の街を歩いた。不思議と沈黙が苦しくなく、時折、遠くから車の音が聞こえた。歪んだ磁場とやらが元に戻りかけている、と白澤さんが説明してくれた。
 男が落としたコインのうち、一枚は道の真ん中に、もう一枚は別の路地の側溝に落ちていた。あの男は俺を探してどこまで行ったのだろう。無事にバスに乗れているといいのだが、二度と会いたくはない。
 コインをすべて白澤さんの手に渡す。白澤さんは、黒っぽい小さな袋にそれを入れて、大事にコートの内側へしまった。正しい保管方法なのだろう、恐らく。
 もう探すべきものの気配は感じなかった。周囲を見渡しても、どこも明るく感じない。さっき手のひらにあったコインも、黒い袋の中にしまわれた瞬間から見えなくなった。
「もう、ない……と思う、俺にはわかんなくなりました」
「大丈夫、私も同意見だ。手伝ってくれたお礼をしたいから、事務所に寄って欲しいのだが……」
 ふと、白澤さんが腕時計を見て苦笑する。同じように自分の腕時計を確認すれば、とっくに終電の時間を過ぎていた。
 並んで歩き出す。もう、いつもの新宿の夜だ。ぎらぎらと光る歌舞伎町、くたびれた人を乗せて走り去るタクシー、仲睦まじげな人々がちらほらと見える。いつもの街だと思うと心の底から安堵が押し寄せてきた。
「朝まで休んでいくといい、場所を貸そう」
「床で十分なんで……」
「あの事務所、二階が私の部屋なんだ。横になれるソファーがあるから」
「……じゃあ、その、飯買っていってもいいですか?」
 安堵の次に押し寄せるのは、疲労と空腹だ。足が重い。目の奥がじんじんしている。くたびれた、というのはこういうのを言うのだろう。白澤さんは俺の顔を見てくすりと笑った。
「何でも好きなの買いなさい」
 財布は私が出すから、という白澤さんの横顔が冴え冴えとしている。白澤さんも一安心したのだろうか。
「それと、……探偵助手の採用体験、なんですけど」
 自分から口に出したら、少し声が揺れた。
「ほんとに俺でいいなら、ここで働きたいです」
 仕事の内容がどうとかではなく、白澤さんといると心地が良かった。
 今まで、定職に着くことが出来なかったのは、容姿を理由に邪険にされたり、働く姿も見ていないのに態度が悪いと決めつけられたり、ひどい目に合ってきたからだ。
 白澤さんは、そのどれもなかった。この人と一緒なら、何か出来るのではないかという気持ちがあった。それは俺の願望かもしれないけれど、この人の役に立ちたい、と思うには十分だった。
「……ありがとう。そう言ってくれると思っていた」
 白澤さんはふと立ち止まり、やわらかな声で俺にお礼を言った。ありがとう。ありがとう、だって。久しぶりに聞いた言葉だ。笑うと目が細くなって糸みたいだとか、一瞬見えた瞳の色が明るくて、日本の人ではないのかもしれないと思った。それは、別に本人に言うことではないから、黙っているけれど。
「詳しい話は、帰ってからにしようか」
「はい、……何て呼ぶべきですかね。所長、ですか?」
「白澤でも構わないが」
「ダメでしょう、部下に呼び捨てさせたら」
 互いに首をひねる。何が良いだろう、と考えるうちに腹の虫がついに悲鳴をあげた。隣にいた白澤さんにもずいぶんくっきり聞こえたようで、くつくつと笑いを堪えている。
「まずは腹ごしらえだ」
 白澤さんが歩き出す。その背中を追いかけて、歩いた。そうしてようやく、俺は新宿の街に溶けていく。案外、この街にもいい人がいるものだなあと思いながら。

おまけ:閑話はこちら