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黒沢清「岸辺の旅」はホラー映画である。

 ホラー映画とは、そもそも生者と死者が交わる映画のことではなかったか。死者が生者の世界に現れ、思いを果たそうとする映画ではなかったか。その方法において生者が竦むような強引さがあるか、または生者の悔恨に寄り添い、応えようとするのかの違いはある。後者であるこの映画は、その意味では広義のホラー映画なのである。黒沢清は、一貫して生者が死や死者と向き合うホラー映画を作り続けてきた。死者が生者に訴えかける思念を読み解く、というのが彼のテーマであると言っていい。彼の映画で、「死」が登場しない映画はない。そして瑞希の元に優介が現れるシーンでは、カメラが薄暗がりを恐る恐る横移動して、「何かがいる!」と探す。とそこに「幽霊のように」現れた優介を発見する。これでこの映画がホラー映画であることを図らずも宣言しているのである。

 また、「ジャンル」ということも常に黒沢清のテーマである。「映画のジャンル」を意識せざるをえない不自由さからいかに脱却するか。結果、ジャンルを侵犯する映画をいくつも作り続けてきた彼は、今度は「ホラー映画」と「メロドラマ」の融合を成し遂げた。本人は「ダグラス・サーク」に言及しているものの、むしろ極めて日本的な「情愛」の深みを「メロドラマというジャンル」に頼らず描ききっている。

 「死」というものは、連続しているものを突然断絶させる。そして本来は強固なペアである夫婦や親子、姉妹などの片方を無理やり奪っていく。突然断絶させられたことにより、放り出された片方は深い傷のような悔恨が残り、また消えない追慕を抱き続けることとなる。その念が残り続けている間は、死は死ではなく、死者のぬくもりは残り続けている。生と死が断絶しているというのは間違いだ。生と死は連続していて、優介や、島影さんや、フジエの妹など、死者たちはほんのすぐ近くにいるのだ。

 瑞希と優介の過去の事情について詳しくは語られない。ただ、優介は精神的な病もあって錯乱し、瑞希に辛い仕打ちをし、そして一方的に失踪したことがわかる。すぐに幽霊として蘇ったものの、瑞希の元に戻れるまで3年かかった。それだけ、優介の瑞希に対する罪の念は大きく、愛も深かったことがわかる。瑞希も3年の間、ありとあらゆることをする。自分の対してひどい仕打ちをした優介を待ち続け、探し続けた。50枚はあろうかという、神社への祈祷書がそれを物語る。そして、優介の誘いで一緒に旅に出る瑞希は、先々でまるで巫女のように死者たちを降霊させ、死者たちの悔恨を供養していく。瑞希はその過程で、死者たちを解放するのは、生者の役目であることを自覚していくのである。

 最後の場面。優介が溺死したであろう小さな海岸に来た二人は、寄り添う。瑞希は優介に「一緒にお家に帰ろう。」と心から絞り出すように言うが、それは叶わず、優介を解放してあげるのが自分の役目であることは彼女が一番よく知っているのだ。此岸の岸辺を死者と歩く「岸辺の旅」が今終わったのだ。瑞希は祈祷書を全て火に焚べて歩き出す。生者のみならず死者にも必要な「喪の仕事」が、やっと終わったのだ。

 深津絵里の代表作となるであろう演技が、終始素晴らしい。可愛らしく、従順で思いの深い女性は、彼女の得意とするところであるが、この「可愛らしさ」がこの映画の核となっているとも言える。また、島影さんの臨終の荘厳な場面は、黒沢清が敬愛するリチャード・フライシャーの「ソイレントグリーン」におけるソル老人の臨終へのオマージュではなかろうか、と思ったので言い添えておく。

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