映画の極北、または壮大な虚しさ

「レベナント / 蘇りし者」 映画の極北、または壮大な虚しさ。

 エマニュアル・ルベツキ。初めて出会ったのは「ゼロ・グラビティ」であった。どこまでも透徹した宇宙空間は、デジタル時代とは言え誰もが成し得るものではなく、その名を脳裏に刻み込むこととなった。

 そして、本作。室内でできる撮影の極北を「厚田雄春 / 小津安二郎」が目指したとすれば、室外(自然)でできる撮影の極北を「ルベツキ / イニャリトウ」が目指す。それもまさに極北の地で。

 いかにすれば、今まで制約であったカメラの質量と大きさを無にするような撮影が可能なのであるか。先住民との血も凍る戦闘シーンを、カメラはより速く、より激しく、より近く、より遠く動きまわる。それも、ほぼワンカットのように。まるで獰猛に飛び回る人魂にカメラを装着したかのようで、その自由度はただ事ではない。最後は、そのまま空中に浮遊し、空を見上げて終わるというクレーンショットが来るに至っては、まずこれだけで5分は唸って動けなくなるだろう。そしてさらに「ルベツキ / イニャリトウ」は「偶然」すら操るように見える。グラスを襲っているのは確かに本物の熊ようにしか見えないのは何故であるのか。追われて川に飛び込むとすぐさま鼻先を弾丸が掠めるという水中撮影がいかにして可能なのか。まばらな白樺の林に天気雨のような「天気吹雪」が訪れるのは奇跡ではないのか。そして復讐成就の緊迫した場面に、遠景で起こる雪崩は偶然なのか、特撮なのか。

 一方では古い映画の記憶も散見される。広大な平原に豆粒のような人を捉えるのは、ジョン・フォードのロングを思い出す。また、先住民族との騎馬戦の横移動のショットには数々の彼の映画を思いだしてしまう。カイオワ砦はタルコフスキーの「アンドレイ・ルブリョフ」を檬したということであるが、私はむしろ、グラスの夢に出てくる教会の廃墟の、キリストのアイコンが数々えがかれた壁と、曇天と、水溜りにタルコフスキーを感じた。「イニャリトウ / ルベツキ」は確かに映画史を継いでいるとわかる。

 それにしても、これは壮大な、スターウォーズの一作に勝るとも劣らない巨大プロジェクトである。ロケハンは5年以上前からで、撮影場所はカナダ、アルゼンチン、南アメリカなど、世界数カ所に及んでいる。もしかしたらこの撮影では命を落とすか、重症を負った人間がいるでろうと思わざるをえない過酷さである。

 さて、物語の方は、前作「バード」と同じく狂気に近い妄執に取り憑かれた男の話である。何が何でも自分の「念」を貫こうとする主人公の凄まじさは同じだが、最後は「バード」のようにカタルシスが訪れるわけではない。「復讐するは我にあり」という聖書の言葉で思いとどまったグラスではあるが、仇敵が死んでも、ホークは決して戻ってこない。アリカラ族の族長エルク・ドックは取り戻した娘ポワカとグラスの前を横切って去るが、彼に殆ど一顧だにしない。現れた妻の幻は微笑みながら去って行ってしまう。彼は「愕然とするような虚しさ」に苦悶の表情を浮かべる。それは単に「復讐の虚しさ」だけではない。妻は殺され、息子ホークも殺され、ヘンリー隊長も殺され、仇敵フィッツジェラルドも死に、グラスには何も残されていない。征服者と先住民の架け橋のような存在であったはずのグラスはその位置付けを徹底的に剥奪される。この非情さは何であろうか。西部開拓史は凄惨な争いの後、征服者が勝利する。しかし、先住民を圧殺したトラウマは、その後アメリカにつきまとう。半ば図式的な「西部劇」の壮絶な裏側を、メキシコ人であるところのイニャリトウ監督がこれだけのエネルギーを持って描く所が皮肉に感じるのだが、どうだろうか。

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石川 宏

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