空を飛ぶ者

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鳥のように大空を自由に飛びまわりたい。

よくそんなことを口にする人がいるが
私が幼い頃にすごしたことのある東北のとある村では、それは何も特別なことではなかった。

その村では誰もがみな成人に近くなると、左右の肩甲骨の辺りに小さな三角形の突起のようなものができてくるようになり、
やがてその膨らみは皮膚を突き破り、広げれば3m以上はあろうかという真っ白に輝く大きな翼となるのである。
そして村人はその氷のように美しい翼を広げ、大空を飛びまわる自由を手に入れるのだ。

あなたは羨ましいと思うだろうか。
そうなりたいと願うだろうか。
もしあなたがまだ未成年と呼ばれる年代だとしたら、
その可能性は残されているかもしれない。

気になるのならば試してみると良いだろう。
難しいことはない。
その村へ行って、村人と同じように暮らしてみるだけのことだ。
村人と同じものを食べ、
同じ酒を飲み、
同じように寝起きをする。

もしあなたがまだ手遅れでなかったとしたら、そうやって1年も過ぎる頃には、左右の肩甲骨の辺りに微かな膨らみが出来てきているはずだ。
万が一時間切れであったとしても、そのまま帰ってくれば良いだけのこと。
何も怖いことなどありはしない。

しかしなぜ人はみな空に憧れるのだろうか。
何事もなくただ地上で暮らしていれば良いと私は思うのだが…。

少しだけ視点を変えてみよう。

人の背中から翼が生えるというこの現象は、医学的には、実は伝染病の一種だと考えられている。
しかも一度背中から翼が生えてきたならば、生命に関わる大がかりな手術でもしないかぎりその翼を取り除くことはできないというのだから、これはある意味「不治の病」といっても過言ではないのかもしれない。

そしてこの現象が「病」だと考えられている理由が実はもう一つだけある。
それは、
翼を手に入れた者は、その日から数えて1年が経過する頃に、必ず死んでしまう、ということだ。

ただ、それはいわゆる「病気に身体を蝕まれて」というものではなく、死因としては「老衰」という扱いになる。
つまり、身体には何ら不具合らしい不具合は起こらないのだ。
人類にとっては翼が生えるという特異な状態を維持することそれ自体が、内臓に、骨格に、はたまた循環器に、かなり大きな負担を与えることになるらしく、そのために老化も加速度的に進行。1年の後には「物質」としての人体は完全に減価償却されて、終了。
…ということらしい。

もしあなたがこの村に生まれ、好きとか嫌いとか選ぶ自由すらなく、
成人になったら確実に背中から翼が生えてくるとしたらどうするだろうか。

もしあなたの愛する人がこの村で生まれ育ち、一生愛し合っていたいと願ったとしても、その1年後には必ず死んでしまうとしたらどうするだろうか。

翼なんていらない。
空なんて飛べなくていい。
もっと永く生きていたい。
ずっとそばにいてほしい。

そんなことを願うのではないだろうか。

しかしそんな願いすらかなうことなく、村人たちの背中にはいつか必ず翼が生え、1年という残り短い時間を気にしながら結婚をし、子供を産み、そして死んでいくのである。

自分にはいずれ必ず翼が生える。
そして
今まで生きてきた長い年月と引き換えにすることが出来ないほど短い時間の後に、必ず死んでしまう。

それでも彼らは空に憧れるだろうか。
翼が生える日を待ちわびながら暮らしているのだろうか。

翼が生える瞬間は美しい。
空を飛ぶ姿は美しい。
けれどそれは、ただ傍から見た時の感動にすぎないと私は思うのだ。

彼らの飛ぶ姿は悲しい。
美しさに誤魔化されないほどに悲しい。
そして泣きながら空を飛ぶ姿は、やはりどこか苦しげなのだ。



今日、バス停に向かう道の途中で、
1匹の蝉が枯れたように死んでいるのを見た。



初出:2004年 
   ブログ『晴れた日に見えるもの 雨の日が見せるもの』(現在は終了)
加筆・修正:2014年

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