ラジック・エッテをめぐる ある綿毛のような風景

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 隣のハヤシさんは声が大きい。
これだけ狭いオフィスなのだから、そんな音量で話されたらこちらの会話にも影響してしまうというものだ。
というか、ハヤシさんの声は僕の受話器を通して確実に僕のお客さんの耳にも入ってしまっているはずだ。

「いや、そうじゃないんですよ。その使用料にかかるファンドですから、価格が変動しても関係なく、毎月決まった額の分配金が、安定して受け取れるんです」

 その声の波に乗るようにして、僕のデスクの上にふわりと小さな白い綿毛が舞い降りてきた。
 
 まただ。
 
 ハヤシさんのデスクには相変わらず小さなふわふわとしたぬいぐるみのようなものが置かれている。
左手で受話器を握り、電話帳のコピーに目をやりながら、けれど右手は休むことなくそのぬいぐるみのような丸い物体をさわさわと撫で回し続けている。

「いやいや、違うんですよ。低金利が続いているこのご時勢だからこそ、現在の預貯金よりも少しでも付いたほうが良いですよね、っていう話なんですよ」

 もう慣れたから別にかまわないけれど、最初のうちはこの舞い降りてくる綿毛がイヤでイヤでしかたがなかった。
ちなみに、ハヤシさんはもうすぐ五十歳半ばにはなろうかという、白髪混じりのどこからどうみても立派な中年男性だ。
ハヤシさんの名誉のために言っておくが、彼は別にぬいぐるみを異常に愛しているとか、そういった類のマニアな趣味を持つ人だとかいうわけではない。
ハヤシさんに限らずうちの社員の約八割はデスクにそのぬいぐるみのようなものを置き、片手で撫で回しながら仕事をしているのだ。


 今から数年前に日本に入ってきたそのぬいぐるみのようなものは、すぐにネットやらテレビやら新しもの好きのメディアに祭り上げられ、あっという間もなく日常の風景の中へと溶け込んでいった。

 正式名称「Ragic-Ette(ラジック・エッテ)」。

イタリアだかどこだかで作られた商品らしい。
英語圏では「レイジック」の愛称で呼ばれ、ここ日本でも「ラジッテ」とか「ラジエ」とか呼ばれている。
この商品も一般の流行りものの例に漏れず、いずれ略称が一本化されることだろう。

 直径十五センチほどのこの白いふわふわとした商品は、当初二十代の女性をターゲットとした癒し系グッズとして販売されたのだが、
その予想に反して十代から六十代までという幅広い年齢層から受け入れられ、やがて女性だけでなく男性社会にまでも広く浸透していった。
ストレスが多いとされる職種に勤務するサラリーマンには特に好評だった。
なんでも、手のひらでやさしく撫でてやるとウソのようにストレスが消えていくという話だ。
撫でれば撫でるだけ気持ちが楽になっていくらしい。
ただ、ずっと使い続けられるというわけではなく、撫でるたびに小さな綿毛が舞い上がり、
その舞い上がった綿毛の分だけ次第に本体も小さくなっていく。
だいたい二週間ほど使用すると跡形も無く消えてしまうらしい。
ラジック・エッテは消耗品なのだ。

 本体だけでなく、舞い上がった綿毛のほうも、自然揮発して数秒で消えてなくなる。
人体には特に害は無いという話なのだが、その消えてなくなる様子がどうも子どもの頃に見た箪笥用防虫剤を連想させ、
メーカー発表がどうあれ、僕にはそれが何かしらの化学物質で作られているようにしか思えず、
店頭で商品を目にしたところで、じゃあ試しに使ってみようかなんて考えにまでたどり着いたことは一度もなかった。

 どうやら僕はそれをはなっから嫌悪の対象として認識してしまったらしい。
考える以前の部分で拒否しているのだからもうどうしようもない。
以前上司からも個人的にその使用を薦められたのだが、努力してみたところでそれを受け入れることは生理的に不可能だった。
子どもの頃に食べられなかったトコロテンがいまだに食べられないというのとおそらく同じような感覚だ。
僕はもう諦めている。それに、今のところそれで困ったということはない。



「それでですね、私、北区を担当させていただいているハヤシというんですけれどね、毎日パンフレットを持って歩いてるものですから、そのついでといったらなんですけれども、もしお時間が合いましたら玄関先でかまいませんのでご挨拶がてらお伺いさせていただきたいなあ、と……、いえ、そうじゃなくって、『やる、やらない』という話しではなくってですね……、いえ、あの、ご挨拶がてらにパンフレットを見ながらですね……」

……ガキャンッ!

 ハヤシさんが受話器を叩きつける音が鳴り響いた。
どうやら途中で電話を切られたらしい。
一日に何十件ものお宅に電話をかけるこの仕事だ。
相手から電話を切られるたびに腹を立てていたらとてもじゃないがやってられない。

 ハヤシさんにすれば電話口のお客さんがけっこう長い時間話しを聞いてくれていただけに、なんとしてでも「見込み」にまで結び付けたかったのだろうが、
あの怒り方を見るともしかしたら「オレオレ詐欺!」とかなんとか言われたのかもしれない。

 ラジック・エッテを撫で回すハヤシさんの右手の動きが俄かに激しくなる。

 ハヤシさんの顔から次第に険しさが溶けてゆき、僕のデスクの上では飛んできた綿毛が積み上がる端からシュウと音を立てて空気中に溶けていった。
その瞬間、鼻腔の奥にツンとした刺激を感じたような気がしたが、おそらくただの気のせいだろう。

僕は頭を切り替え、電話帳のコピーを指で追いながら次の番号をできるだけゆっくりとプッシュすることにした。

終業時刻まではまだまだ長いのだ。
ペース配分をしなければ、とてもじゃないが、やってられない。


      * * *


 そのニュースが世界中を駆け抜けたのはもうすぐ春も近いという3月も半ばのことであった。

「ラジック・エッテは人体に有害! 癌をはじめとする十八種類の病気との関連性をイギリスの研究グループが学会で発表!」

 どこよりも早く最新のニュースが見られるお気に入りサイトの記事によると、その愛らしい外見に反し、ラジック・エッテは有害物質の塊であり、また、中毒性のある快楽物質まで含有しているという。

 そのショッキングなニュースにテレビ画面は街頭インタビューの映像と専門家のよくわからないコメントを連日たれ流し続け、
国会で質問に立つ野党議員はここぞとばかりにやたらと唾を吹き飛ばしながら首相に早急な対応を求める怒声を響かせまくった。

どちらもこの問題の行く先を本気で心配しているようには見えなかった。ただの正義の味方ごっこだ。

「ラジッテって超かわいいじゃないですかぁ。変な言いがかりはやめてほしいですぅ。私? やめませーん!」

「周りにもラジってる人、かなり多いですし、すぐに禁止、というわけにはいかないんじゃないですか」

「私はやめられないと思います。というか、やめたくないです。病気になったらなったで私の責任なんで他の人にとやかく言われたくないです」 

「私はラジってないです。迷惑です。ほんとあの綿毛、なんとかしてほしいですよね。とりあえず、あのかわいらしいテレビCMはすぐにやめてほしいです」

「誰か実際に病気になった人いるんですか? イギリス? あ、そう。日本ではまだ大丈夫なんでしょう?」

「ラジッテだかカジッテだか知らないが、大の大人がみっともない。あんなぬいぐるみみたいな物に夢中になって。日本の恥。恥だよ。私の周りじゃぁみんなそう言ってるよ」

「え? この店ラジッテ禁止? 全席? あ、そう。だったら別の店に行くからいいですよ。え? あんたナニ? 警察? ……テレビ? じゃああんたにそんなこと言う権利ないでしょう。なんなのその偉そうな態度。だったらラジッテやってる人たち全員つかまえて、順番に説教してればいいじゃないですか。ほら、たぶんあの人もやってますよ。行ったらどうですか。やってるのは僕だけじゃないんですから」

 世間で何が起ころうと、今日もまた僕は電話をかけ続けている。

 部長が言うには、これは今までにない観点で作られた新しいファンドで、もちろん法には全く触れていないのだから社員のみなさんは自信を持ってこの素晴らしい商品を売りすすめていって頂きたい、ということなのだが、
とりあえずこのオフィスで電話をかけまくっている僕ら社員の中でこのファンドのことをちゃんと理解している人は今のところ一人も居ない。
理解していない状態で「電話接客マニュアル」に載っている言葉をただ並べたてているだけなのである。

 僕が働いているこの会社自体は別にこのファンドを取り仕切っているというわけではなく、あくまでも販売代理店として電話営業を進めているにすぎない。
だから社員は誰一人としてそういった資産運用商品を取り扱うための資格なんか取得してはいないし、
お客様に伝えている「お問い合わせ電話番号」もこの会社につながるものではなく、委託してきた会社に直接繋がるといわれている番号をただ読み上げているだけだ。
このファンドに投資して本当に利益が出るのか、そんなことは社員の誰も分からない。
詳しく調べて色々と知ってしまうのもなんだか怖い。
噂ではまだ出資者も少なく、本当に現地でこのファンドが執り行われるのかすらも危うい状態らしい。
というのも、この投資の対象物があるのは日本でもアメリカでもヨーロッパでもなく、レアメタルが大量に眠っていると言われている南アフリカの騒がしい採掘現場なのだ。
しかもこのファンドはそのレアメタルに投資するわけではなく、レアメタルを掘るために南アフリカまで行っている中国人をターゲットに、パワーショベルやら採掘ドリルやら必要な機材を貸し出してそのレンタル料で利益を得ている会社に対して投資をしましょうという、どうにも「本当に大丈夫なのかよ」的な商品なのである。
けれど僕らはそんな不安要素など電話先の相手にはまったく伝えることなく、ただひたすらにこのファンドの素晴らしさをしゃべり続けている。
それが僕の仕事だからだ。
 
 もしも僕に手に余るほどの莫大な資産があったとしても、このファンドにはぜったい投資しないだろう。
まず安心できる会社で取り扱っている商品でないと、危なっかしくって自分のお金を預けるだなんて、とてもじゃないが信じられない。
まあ、もともと資産運用をしている人たちそれ自体が、僕には信じられないのだが。


      * * *


 四月になるとラジック・エッテの有害性に関する続報がメーカーから発表された。
発表内容を要約すると、どうやら使用している本人よりもその周りにいる人の方が病気になる確率が高いということらしい。
本体よりも撫で回したときに舞い上がる綿毛の方に多量の有害物質が含まれているようなのだ。

「いえ、違うんです。銀行ではないんです。投資信託の販売代理店でですね、今日は安定利回りタイプの五年満期型のファンドを……、いや、元本保証って言葉は違法になっちゃうんで使えないんですけれど、満期さえ守っていただければ限りなく安心して運用していただけるという……」

 ダメだ。また切られた。
なんだか全くうまくいってない。
ぜんぜん「見込み」までたどり着けてない。

 相変わらずハヤシさんの声はうるさいし、喋っていても頭がボーっとしてくるし、
もうイライラするわ、頭痛はするわで、営業トークも何もあったもんじゃない。

「どうした? 頭痛? あー、契約取れない時は俺も毎日頭痛がしたもんだよ。『良いものを勧めてる』って気持ちでやんなきゃ取れるもんもとれないぞ。」

「え? モリシタさんアタマ痛いんですか? もしかしたらそれ、ラジッテの影響だったりして」

 隣りのハヤシさんと斜め向いのオカダさんがからかうような口調で話しかけてくる。
もちろんオカダさんもラジック・エッテ愛好者だ。
いや、大丈夫ですよ、そんなことないですよ、とかなんとか適当にやりすごしながら、再び電話帳のコピーに目を落とす。

「なんだ? 俺のせいか? なんだか責められてるみたいで肩身が狭いなあ。あー、でも、俺は誰が病気になってもラジッテやめるつもりはないから。」

「っていうか、モリシタさんもラジッてみたらどうですか?」

「やってる本人より周りにいる人間のほうが影響があるっていうし、モリシタ、もう病気になってんじゃねえのか?」

 向かいの席のオオツカ主任までもが首を伸ばし、その無遠慮な笑い声を周りに撒き散らす。
と同時に、右手の下からは白い綿毛を豪快に撒き散らす。

 気のせいか、目の前がクラっと揺れたような気がした。


 ハヤシさんたちの手の下で今日も撫でられては磨り減っていくラジック・エッテ。
本当に害毒を撒き散らすだけの物なのだとしたら、ラジック・エッテとは結局何なのだろうか。
今では国によっては法律で全面禁止になっていたり、年齢制限を設けていたりするところもあるようなのだが、
間違いなく害毒であるというのなら一定年齢以上の人に許可するというのもおかしな話だ。

 それとも、結果がどうあれ、一時でも快楽の瞬間を提供できるのなら、それはそれで人類にとって有益なのだろうか。
 健康上の弊害はあれど、ラジック・エッテは間違いなく癒し系グッズとして人々の役に立っている。
 愛好者がそれを実感している以上、その事実は揺らぐことは無い。
 長い竿の両端に「癒し」と「害毒」とをぶら下げてみたら、僕の天秤はいったいどちら側に傾くのだろうか。 
 ハヤシさんたちは既に毒されているのだろうか。
 僕はまだ毒されていないのだろうか。
 もしかしたらハヤシさんたちではなく、僕の方が毒されているのだろうか。
 おかしなことを考えているのは実は僕の方で、ハヤシさんたちの言うことの方が本当は正しいのだろうか。
「人体には特に害は無い」というメーカー側の公式発表はいったい何だったのだろうか。
「見解の違い」という衣に包めばそれは嘘でなくなるとでもいうのだろうか。
 僕のこの毎日の電話営業も結局は何なのだろうか。
 誰かの為になっているのだろうか。
 人々に害毒を撒き散らしているだけではないのだろうか。
 誰か喜んでくれている人はいるのだろうか。
 結果がどうあれ、一時でも夢の瞬間を提供できるのなら、それはそれで社会にとっては有益なのだろうか。
「見解の違い」という衣に包めば僕のこの営業トークも嘘でなくなるとでもいうのだろうか。
 それともやはり、考えたくもないことだが、社会からみれば僕たちはただの害毒で、迷惑な存在にすぎないのだろうか。


 ラジック・エッテが禁止されると困る企業が日本には数多く存在するとニュースが叫んでいた。
禁止することこそが世の中の害毒であると主張している知識人の映像が上下に激しく揺れていた。
かつて「清浄」だったはずの僕らは、いつの間に毒されてしまったのだろう。
もしもこの世界の全てが毒されてしまっているのだとしたら、その時は染め残された「正常」こそが害毒になるのだろう。
だとしたら今の僕はいったいどちら側の害毒なのか。

 頭が痛い。頭が痛い。頭が痛い……。

 窓の外の景色が急激に暗くなってゆくのが見えた。

 気持ち悪い……。


   
      * * *


 今日もコンビニやスーパーの店頭ではラジック・エッテがその愛らしい姿をふわふわと揺らし続けている。
 これだけ日常生活に浸透しているラジック・エッテの販売を禁止したならば日本経済に及ぼす影響は計り知れないものとなるであろう、という公の見解が発表されたためか、
使用禁止推進論者も今ではもう少数派となってしまっている。
おそらく先に法規制を決めた他の先進諸国と同じように、この国も「年齢制限を設ける」というあたりでなんとなく落ち着いていくのだろう。

 ラジック・エッテ愛好家にしても、もっともらしく聞こえる理由でその権利を主張している人たちが未だ主流派ではあるものの、
ネット上では「女の子たちから、こんなにも可愛いらしいラジッテを取り上げるなんて酷いと思いませんか?」なんていうアイドルタレントのコメントですら
今では若い世代からは大きな支持を得てしまっている。
何もかも混沌としている感じだ。
新しい価値は混沌の中からこそ生まれる、というのは、いったいどこで聞いた誰の言葉だったろう。
この無意味な混沌からも何かしらの価値が生まれるのだろうか。
その哲学者の首根っこを引っつかんで一度問いただしてみたいものだ。

 そして何事もなく今日の仕事も予定時間の半分を過ぎ、まったく「見込み」を取れていない僕は、相変わらず電話帳のコピーを指で追いながら次の番号をできるだけゆっくりとプッシュしている。

 最近は何をしていても身体がだるい。
頭痛はもちろん今もまだ続いている。
ハヤシさんの手の下にある白いふわふわとした得体の知れない物体を眺めながら、僕はただ舞い上がる綿毛の儚さを綺麗だと感じていた。

 もうすっかり慣れてしまった鼻腔の奥の刺激も、それならそれで良いか、という気持ちにすらなってきている。
 けれどそう思った直後、一瞬部屋が大きく揺れたかのようなひどい眩暈を感じ、僕の目は、無意識に壁に貼られているはずのカレンダーをさがしていた。


 終了までは、たぶん、まだまだ時間はあるのだ。


 そう思ってペース配分をしなければ、とてもじゃないが、やってられない。




初出:2011年 コスモス文学新人賞 掌編小説部門 佳作
加筆・修正:2014年

※以降に文章はありません。「投げ銭」歓迎です。

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