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【新説】ハンバーグのルーツは横浜にあり!! (前編)

ハンバーグの定義とは?

老若男女が大好きなハンバーグ。それは国民食でもあり、外食メニューの横綱といえる。でも、そもそもハンバーグとは、いったいなんなのか? ウィキペディアには18世紀ごろのドイツ・ハンブルグでのタルタルステーキがルーツとある。グルメサイトや食ブロガー、そしてテレビ番組や雑誌、書籍などでも様々なメディアが、当然のこととして、受け売りに解説している。はたしてそれは事実なのだろうか?  無類のハンバーグステーキ好きとしては、どうもこの説に日頃から違和感を覚え、この説を目に耳にするたびになぜかムカムカとするので、ミンチマンと異名を持つスイーツ番長がハンバーグについて真っ向から挑み、本当のハンバーグを、日本におけるハンバーグの本当の姿を明かします!

▼ハンバーグのレシピ

牛挽肉(または牛豚の合挽)、卵、パン粉、玉ねぎ、塩、胡椒、ナツメグ(香辛料、ハーブ)を、玉子型あるいは小判型に成形し焼き上げたもの

これが洋食として我々が楽しんでいる一般的なハンバーグのレシピだ。いや、正しくは「ハンバーグ ステーキ」というべきか。故にこれをもってハンバーグの定義となる。ではこのハンバーグのレシピはいつごろ登場したものなのだろうか?  それがわかれば、ハンバーグのルーツが判明するのではないか?まずはそこから探っていきたいと思う。

ハンバーグとはドイツの港湾商業都市「ハンブルグ」のことである

ハンバーグは「Hamburg」と表記され、ドイツ最大の港湾商業都市であり、EU最大級の物流拠点であるハンブルグのことをさす。その歴史は古く中世にまでさかのぼる。ところがハンブルグにはハンバーグステーキという名の食べ物はない。が、しかし、前述した「ハンバーグの定義」とほぼ同じレシピの料理がある。それが「フリカデレ」だ。

フリカデレ(Frikadelle)がドイツのハンバーグステーキだ !

牛挽肉(または牛豚の合挽)、卵、パン屑、タ玉ねぎ、塩、胡椒、ナツメグ(香辛料、ハーブ)を、玉子型あるいは小判型に成形し焼き上げたもの

これが、一般的なフリカデレのレシピだ。驚くことにハンバーグのレシピそのものではないか!?

そのレシピは意外と古い。現存する、記録されている最古のレシピは、ドイツのWolfenbüttelにあるヘルツォーク・アウグスト図書館(Herzog August Bibliothek)に所蔵されている。

「ディ・ヴォールウンターヴィーゼネ・ケヒン (有能な料理人) / 1697年 マリア・ソフィア・シェルハマー著」という料理本には

仔牛の挽肉と雄牛の骨髄を使い、ナツメグ、塩、胡椒、レモン汁、ワインを加え卵型にしてバターで焼く

と、フリカデレを著わしている。おぉ! これはまさしくハンバーグでの定義ではないのか!? ちなみに雄牛の骨髄というのはつまりは牛脂である。「ディ・ヴォールウンターヴィーゼネ・ケヒン」は、貴族のための料理本で、15世紀にドイツの庶民の間でつくられていた料理フリカデレが話題となり、貴族にも広まったという証だ。今でもフリカデレは各家庭で日常的につくられ、作り置きのできる、惣菜的な意味合いを持つ。そしてフランクフルトソーセージのように、ビアホールやカフェなどで提供され、惣菜店、フリーマーケットなどでも購入できる。
もともとヴルストという、いわゆるフランフルトソーセージなどに示されるように、ドイツ人にとって、肉を挽肉にして調理するのはごくごく普通のことだったのでしょう。

タルタルステーキはハンバーグのルーツにあらず

ところで、ウキペディアなどには、ハンバーグの原型は、18世紀ごろのドイツ・ハンブルグでの「タルタルステーキ」というのが定説になっていますが、これは大きな誤りだということが、もうすでに判明してしまった。なぜならばフリカデレは15世紀には、もうすでにドイツに存在していたのだから。

そもそもタルタルステーキは、 フランス料理のレシピ「steak tartare」のことで、 19世紀から20世紀初頭にかけての人気のフランス料理のレシピ  "à la tartare" or "served with tartar sauce"  を略して「steak tartare」と呼んだものだ。タタール人やタタール地方を表す tartare はフランス語で、異国という意味や野蛮という意味ももつそうです。一説にはタタール人(モンゴル人)の家畜の馬を生で食べる風習が、モンゴル帝国全盛時に、ヨーロッパの地に伝わったとあります。ようするに、生肉を成形料理したものを焼かずにそのまま食べることを、"異国風のステーキ"とフランス料理で呼んだに過ぎず、現にタルタルステーキはタタール料理と関係がないというのがフランスでの定説です。ちなみに、タルタルソースももちろんタタール料理ではありません。何より、ヨーロッパにタルタルステーキという料理が出現する前から、フリカデレはドイツに存在していたし、フランクフルトソーセージのように、肉を刻んで調理するというのは、モンゴル帝国時代にヨーロッパに生肉食が伝わったとされる時代より、さらに前の中世にはに、ドイツ人は肉類を刻んで普通に調理していたのですから、ハンバーグ(フリカデレ)のルーツがタルタルステーキと無関係というのは、推して知るべしである。

ハンバーガーのルーツもフリカデレ

19世紀半ばから20世紀前半にかけて、アメリカ大陸に向けてドイツから1000万人を超える移民が旅立という。その玄関口の一つがハンブルクであった。当然、フリカデレもアメリカに伝わり、フリカデレはハンブルグのステーキということで、文字通りにHamburg Steakと呼ばれた。1870年代にはニューヨークに、ドイツ人が経営する店で「ハンバーグ」というメニューが出現したそうで、さらにの歴史 世界中でなぜここまで愛されたの「ハンバーガーか?  アンドルー・F・スミス著、小巻靖子訳/ブルース・インターアクションズ」によると、1876年のフィラデルフィア博覧会に出店したドイツ料理店でフリカデレの「ハンバーグステーキ」が好評を博し、ドイツ移民以外にも広く知られるようになったという。そしてこのハンバーグがやがてサンドイッチとなり、ハンバーガーが完成するのである。 このことで、おわかりのように、いわゆるハンバーグステーキという名称は、この時代のドイツからアメリカの移民によって、フリカデレがアメリカでハンバーグと呼ばれるようになった!というのは間違いのない事実と思われる。

日本最初のハンバーグ、キーワードはドミグラスソースにあり

ではいったい、ハンバーグは日本にどのように定着したのだろうか? ここでもう一度、ハンバーグの定義について触れておきたい。

牛挽肉(または牛豚の合挽)、卵、パン粉、タ玉ねぎ、塩、胡椒、ナツメグ(香辛料、ハーブ)を、玉子型あるいは小判型に成形し焼き上げたもの

実は、これには定義として物足りなさがある。そう、我が日本のハンバーグには「ドミグラスソース」がかかっているのだ。日本の外食メニューの横綱「ハンバーグ」の完全形は、上のレシピにドミグラスソースを以て成すといってよい。ドミグラスソースとはフランス料理のソースなのである。ということは、日本のハンバーグはフランス料理がルーツと考えれば、答えが自ずと導かれる。

日本に於けるハンバーグステーキのルーツは、以下に示すとおり諸説あるが、どれもこれも、この「ドミグラスソース」というハンバーグステーキの定義を照らすと物足りない。

ハンバーグらしきものの登場

ビトック・ア・ラ・ルース(ロシア風ビトック)説

「ハンバーグラプソディー (ハウスポケットライブラリー ; 3) / 1988.10 ハウス食品工業」によると、1861年(万延2年)に、長崎の西洋医学者・松本良順の家で開かれた、オランダ人医師・ポンペを囲んだ宴の席で「豚ビストク」が供されたとあり、これがハンバーグの原型と紹介されているが、ビストクとはフランス語料理名「Bitokes à la Russe ビトック・ア・ラ・ルース(ロシア風ビトック)」のことで、挽肉に小麦粉をまぶして揚げ焼きしたもので、むしろミートボールなどに近い。これがハンバーグの原型というには無理があり、間違いと思われる。

▼アメリカ伝来節

幕末の黒船ペリー来航と咸臨丸による太平洋航海というの強烈なイメージ、そしてハンバーガーの存在からアメリカ伝来節が根強くあるが、1859年横浜開港後の1861年から1865年にアメリカでは南北戦争が起こり、対日政策どころではなかったはずで、開港後に日本との交流が著しく減速した。それが証拠に、1865年の各国の対日貿易の割合はイギリス86%、フランス8.2%、オランダ4.3%、アメリカはたった1.5%でしかなかった。このような背景から、開港維新後、アメリカ人との交流は急激に減速しアメリカ伝来説はまったくないと言ってよいだろう。もし、アメリカがルーツだとしたら、アメリカから開港とともに入ってきたトマトケチャップでハンバーグを食べていて、今のドミグラスソースとは違う進化をしていたかもしれない。

▼赤堀割烹教場 説

また「指南包丁 出雲明著 / 1963年赤堀学園出版局」によると、1882年(明治15年)に開設された日本初の料理学校「赤堀割烹教場」の開校披露の席上にハンブルグステーキいう料理が供され、そのレシピも「洋食五百種 : 家庭応用 赤堀吉松 等著 / 1907年新橋書店」に公開されている。

これは、ほぼ古いフリカデレのレシピと同じだが、表面に小麦粉をまぶして焼くところが、ハンバーグの定義に照らすと少し物足りない。そして何より、ドミグラスソースもない。なにより、仏教伝来以来、開港するまで肉食禁忌だった日本人が、このハンバーグのレシピを考案したとは考え難く、ハンブルグステーキという名称からフリカデレがルーツというのは間違いないだろう。

▼ボーカス著 常磐西洋料理 説

「常磐西洋料理  ボーカス著/ 1904年常磐社」にもハムブルグステーキのレシピがあるが、「赤堀割烹教場」とほぼ同じ記述で、我々の知っているハンバーグステーキとは異なる。

興味深いのは、常磐西洋料理説にしても、赤堀割烹教場説にしても「ハンブルグステーキ」としていることだ。当然日本にはそんな名称、レシピがなかったわけで、すでに開港地にあったレストランや料理人の受け売りであることには間違いない。いずれにしても、これらがたとえ日本のハンバーグのルーツだったとしても、西洋料理店やレストランでの、メニューとして出されていたわけではないので、ハンバーグのルーツとするのには違和感を覚える。そして、この時代はまだ、「ドミグラスソース」が日本に普及しておらず、日本のハンバーグステーキのルーツとは言うことができないのは明らかだ。

日本のハンバーグのルーツはフランス料理だ!

いずれにしても、ハンバーグのルーツは西洋料理、つまりはフランス料理が原型であったのではないか?ということは推測できる。
幕末の開港による外国人居留地の開設が、西洋料理の発展に深いかかわりがあることは確かである。特に規模の大きかった横浜の居留地には、欧米5ヶ国の公使やそれに伴った商人が多く移り住み、様々な文明開化をもたらした。欧米人による欧米人のためのホテルやレストランが開設され、そこで供される料理は、そのほとんどがフランス式の西洋料理だったという。そして明治政府の公式晩餐や帝国陸海軍の食事にもフランス式の西洋料理を取り入れ、日本では西洋料理といえばフランス式の料理を指すようになる。19世紀にはフランスにハンブルグステーキというレシピがあったのだから、常磐西洋料理にも赤堀割烹教場にも「ハンブルグステーキ」というレシピ名が登場していてもなんら不思議はない。

▼西洋式ホテルの登場

ここで、立ち止まり、日本の西洋料理について知ることが必要であろう。
横浜居留地が設置された1859年(安政6年)から1899年(明治32年)の間に、居留地に開設された外国人のためのホテルは130にも及ぶという。もちろん改名したり消滅したものも含まれ、中には下宿もどきの素泊まり施設もあったようなので、大きく見積もるのは危険だが、かなりの数のホテルがあったことは確かであり、そこにレストランやクラブ、カフェが存在し、多くの人材がいたはずである。とはいっても、開港当初は、各国の公使や商人に随行してきた人材がほとんどで、日本人は少なかったと思われる。また、中国に寄港してから来日してくる関係で、各国商人などは日本人との仲介役や、使用人やコックとして中国人を連れ立っており、1867名年には660余人もの中国人が居留地に住み、すてに欧米人を上回っていたという。それがそのまま横浜中華街になっていったのである。居留地のホテルやレストランは、外国人による外国人のための施設だったのであり、日本人の食文化には直接影響はなったと思われる。しかし、彼らのつくる料理は、それまで肉食禁忌だった日本人のつくる料理とは明らかに別物で、本場西洋式のレシピも導入され、それに触れた日本人の料理人などもいたことは想像できる。

日本で最初のホテルは1860年(万延元年)に横浜居留地にできた 横浜ホテル(フフナーゲルホテル)である。本格的なホテルは、1868年(慶応4年)に築地居留地に開業した築地ホテル館。フランス人料理長ルイ・ベギューによる日本初となるレストラン(フランス料理店)がオープンする。そして1870年(明治3年)に大型ホテル「グランドホテル」が横浜居留地に創業。 73年の新装の際、料理長に築地ホテル館のルイ・ベギューを招聘し、日本を代表するホテルとなる。そして居留地の大型ホテルにも日本人が働き出し、その後、優秀な日本人洋食料理人を多く輩出することになる。グランドホテルからは、後の「帝国ホテル」総料理長、ホテルニューオータニの総料理長、明治大正を彩る、名だたる洋食店の料理人が、グランドホテルから巣立っていった。

▼レストラン、西洋料理店の開業
横浜開港資料館によると、1862年(文久2年)に横浜居留地に開業したゴールデン・ゲイト・レストランが記録上の最初のレストランとある。1863年に長崎にて草野丈吉が開業した良林亭を、日本で最初の西洋料理店という説があるが、いわゆる、フランス料理をベースにしていたわけでもなく、独自のスタイルで西洋料理と名乗っていたようだ。
日本人では1869年(明治2年)に長崎県から大野谷蔵が、西洋割烹を開業している。そして1872年(明治5年)には築地精養軒ホテルが開業し、西洋料理が皇室、貴族、政界、財界などに広まっていく。そして明治・大正・昭和と西洋料理人の重鎮を排出することになる。(その屋号は上野精養軒として現存している)

カフェと銘打った店は1864年にアリエ・カフェ、グラン・カフェ・デュ・ジャポン、ヴィクトリア・コーヒー・ハウスが横浜居留地に開業している。コーヒーは横浜開港当初から日本に入ってきていた。

以上の通り、開国後は西洋料理が急速に広まり、それらに丁稚や見習いとして日本人が入り込んでいく。その中から、前述したが、日本の西洋料理の礎となる日本人の名料理人が排出される。

この時代の西洋料理、フランス料理は特定の階級のための、饗応料理であり、大皿料理であり、コース料理でもあった。当時は今のようなハンバーグステーキだけの単品メニューはなく、定食スタイルもない。そのように洋食が楽しめるようになるのは、グリルというアラカルトスタイルで食べられるレストランが登場してからである。
そして、ドミグラスソースがフランス料理に登場するのは本国フランスでも19世紀後半と言われているので、開港当時の日本のフランス料理にはドミグラスソースがまだなかったとみて良いだろ。故に開港後にできた、財閥系や政府系の、西洋料理店などで日本のハンバーグステーキはまだ存在していなかったとみてよい。

とにかく、日本の西洋料理の変遷などと、話が長く広大になってしまったので、ここでハンバーグのルーツを辿るための要件をまとめてみよう。

▼日本のハンバーグのルーツを辿るための要件

・フリカデレをルーツに持つレシピとドミグラスソースソース
・洋食、グリルといったアラカルトスタイルで食べられるレストラン

以上の二つを辿れば、ハンバーグのルーツがわかるのではなかろうか??この要件を満たす、レシピ集が20世紀初頭に登場した。

「ジョルジュ・オーギュスト・エスコフィエ」著 「Le guide culinaire ル・ギード・キュリネール (邦題:料理の手引き)」

フランス料理のバイブルと呼ばれるフランス人シェフ「ジョルジュ・オーギュスト・エスコフィエ」が著した、フランス調理技術の集大成「Le guide culinaire ル・ギード・キュリネール (邦題:料理の手引き)」だ。
1903年に刊行され一世紀以上を経た今も尚、バイブルのように読み継がれている。実はこのエスコフィエの"Le guide culinaire"には
"sauce demi-glace" (ドミグラスソース) が紹介されている。
さらに、ここにも
"Beefsteak à la hambourgeoise"(ハンブルク風ビーフステーキ)も載っており、牛挽肉、玉ねぎ・卵・塩・コショウ・ナツメグを混ぜて成形して焼きつくる...と記されているのだ。

つまりは、このエスコフィエのレシピを日本のフランス料理会、料理人に広めた人物がわかれば、自ずと日本のハンバーグステーキがわかるのではなかろうか??

西洋料理の父 ホテルニューグランド初代総料理長 サリー・ワイル氏

その人物とは、誰あろう、日本におけるフランス料理界の先駆け、西洋料理の父と呼ばれる、ホテルニューグランド初代総料理長 サリー・ワイル氏だ。

パリのホテルで料理長をしていた、スイス人のサリー・ワイル氏は、関東大震災の復興のシンボルとして政財界から期待されて開業した横浜のホテルニューグランドの総料理長として招聘された。(1870年に開業した横浜居留地のグランドホテルは震災で壊滅してしまった。ホテルニューグランドはグランドホテルとは別会社です)
彼のヨーロッパでの経験は、日本に、震災前の西洋料理とは違う、新しい西洋料理をもたらした。それは料理やレシピだけではなく、レストランの厨房やサービスまでにも革新をもたらす。
これまでの西洋料理にアラカルトは存在しておらず、食べたい料理だけを提供するスタイルのアラカルトというサービスをホテルニューグランドで始めた。ドレスコードや酒、煙草についても自由とするなど、今までにない、カジュアルな西洋料理である。そのレシピは、エスコフィエが著した、フランス調理技術「ル・ギード・キュリネール」が元と言われ、日本に、その時代に最先端だったフランス料理をらもたらした。
そしてサリー・ワイルは日本の西洋料理界に「フランスで最上級のソースとされるドミグラスソースこそ、上等なフランス料理の証」という定説を、当時広めたという。

初代総料理長のサリー・ワイル」神山典士 著 の中で、1928年当時にサリーワイル の下で働いていた馬場久氏(後にグリルルームの料理長となる)の言葉がこう載せられている。

「私がワイルさんからハンバーグを習ったのは、昭和3年でございますね。ちゃんとハンバーグステーキという名前でした」。さらに「それまでの日本の洋食は幼稚なもので、今のようなアラカルトもなく、昼はエビフライやシチュー、メンチカツ、夜はビーフステーキかポークカツをメインにしたコース料理だけだったんです」

そして、このハンバーグはアラカルト料理を出す「グリル食堂」で出され、フォアグラのオードブル、日替わりスープ、サラダ、そしてデザートにコーヒーというセットにして、昼に提供し、この時代ながら、東京から車でハンバーグを食べに来る人がいるほどに話題になった そうなのである。

ちなみに、こう語った馬場氏は当時東京にあった屈指の西洋料理店「中央亭」(財界の雄、岩崎弥之助氏により明治40年に赤煉瓦づくりの三菱八号館にて開業、鹿鳴館で料理長を務めた渡辺鎌吉 氏を料理長に招聘)でコックを務めた経験豊かな料理人。そんな人物ががこう語っていたのである。
これは何を意味するのか?
そう、ワイル氏がホテルニューグランドにくるまで、ハンバーグステーキという洋食メニューは日本に存在してかったという証なのではなかろうか?

さらに、ワイル氏から弟子たち教えられたハンバーグのレシピは、ハンブルグ風ステーキ、ドイツ風ステーキ、と数種にも及ぶという。彼はなぜ、ハンバーグのレシピをこんなに多くつくったのか?

多くの顧客、多彩なメニュー、その為には、色々な素材を大量に仕入れとるというホテルの厨房ならではの環境があった。料理先進国からやってきたワイル氏は料理人としての技術に長けていただけでなく、多くの素材を無駄なく有効に使うというマネージメント能力も身につけており、原価計算してレシピをつくるするという、それまでほとんどなかった概念を備えレシピを考案していたのである。
そういう意味でハンバーグはワイル氏にとって格好の存在だった。肉料理の場合、100%肉だけではコストがかかる。パン粉や玉ねぎなどをのつなぎがあれば、その分原価が抑えられる。幸いにホテルの厨房には、ハンバーグをつくるために材料を仕入れる必要がなく、厨房にある、それらのものでハンバーグをつくることができる。ホテルレストランにとってはハンバーグは経済メニューなのであった。そこ目をつけたこらこそ、ハンバーグをメニューに備え、しかも、それを美味しくつくりあげる工夫をし、色々ハンバーグのレシピをうみだしたのだ。ホテルだからこそ、料理先進国から来たワイル氏だからこそなし得たメニューが、ハンバーグステーキなのだ。逆に言えば、この時代、料理の素材環境や仕入れ状況、そしてレシピ、さらに技術、そしてそれらを消費してくれる顧客という客観的な事実を積み上げたときに、ドミグライスソースのハンバーグをメニューにするということは、ワイル氏がいたホテルニューグランドのグリルルーム以外では不可能だったのだ。

ちなみに、ワイル氏が提供していた当時のハンバーグのレシピは以下の通りだ。(初代総料理長のサリー・ワイル・神山典士 著より)

牛モモ肉をスイス製の肉挽機で1回挽き、そこに牛骨髄の刻んだ脂肪、もしくは牛腎臓脂肪(ケンネ脂)を一割混ぜ、一割のバターで炒めたタマネギを混ぜ、200グラムの肉に対して卵を半分個、塩、胡椒、ナツメグを加え混ぜ、パンはしぼってエバクリームを混ぜる。これらを一個100グラムに丸くして、フライパンで厚さ1.5センチにして焼いた 

とある、そこに
フライドオニオンを添え、ドミグラスソースがかかっていた。それがホテルニューグランド・グリルルームのハンバーグステーキなのだ。 

当時のワイル氏のグリルルームのメニュー

そして、今でもホテルニューグランドにはハンバーグステーキはある。
グリルルームは、時代の変遷でコーヒーショップ「ザ・カフェ」と役割が変わり。そこのメニューにあるのが「ハンバーグステーキ オニオンソース」

ホテルニューグランドの取締役総料理長 宇佐神茂氏によると、「ホテルニューグランドの料理は基本的に料理長の個性を強く出すものではなく、伝統を重んじてきた。ハンバーグステーキは開業以来、ずっとメニューにあり(戦後、占領軍に接収されている間は除く)、その時代に合わせて使う素材は変化こそすれど、大きな変更はされておらず、開業当初のレシピが原型にある」という。

そして、そのハンバーグがこれだ!「ハンバーグステーキ オニオンソース」

仕入れ環境がかわり、ワイル氏の時代からは、現状の合わせた進化は当然しているだろう。ドミグラスソースにはオニオンがあわさり、現代人の味覚に合わせて、あっさりとさせて、肉肉しさを十分に感じられる伝統的なハンバーグの美味しさだ。

そう、この味が日本のハンバーグのスタンダードなのだ!これこそが日本のハンバーグの源流なのだ!!
そう思うと、泪が滲むほどに美味しい。関東大震災の瓦礫の中から再生した、復興のシンボルだったこの地に、こんな美味しいハンバーグが生まれたなんて、なんと夢と希望に満ちた事実なのだろう。だからこそ、ハンバーグステーキは時代を超えて愛され続け、洋食外食の王様、国民的なご馳走なのだ!!

ついにここにドミグラスソースをまとったハンバーグステーキがついにここに露わになった!その発祥は、ホテルニューグランドの「グリルルーム」だったのだ!!
そして、サリー・ワイル氏の下で働いた料理人が、名だたるレストランそして街場の洋食屋にまで羽ばたいていき、日本の洋食の発展進化につながっていくのである。


さて、ハンバーグステーキはフランス料理ということは個々で判明したが、現代のフランス料理店にハンバーグステーキは存在しない。それはなぜなのだろうか?

後編につづく...

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