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日記 涙ぐんでも はじまらねえ。



このタイトルとこのコウペンちゃんのぬいぐるみの画像からRCサクセションの名曲「いい事ばかりはありゃしない」を思い浮かべた人にはわたしから「すごいね!」の一言が贈呈されます。いらないな。


***


じわじわとまた脳の暴走が始まっていた。2月に祖父を亡くして家族が落ち込む中で気を張って元気でいなくちゃ、なんて考えがどこかにあったのかもしれない。だけれどもそのツケはかなしいほど正直に回ってくる。

思えば4月、カンピロバクターによる食中毒で救急搬送されたあたりからバグが起こっていた。自分がいま入院している病院の名前がわからない。病室の机の上に置かれた病院名が印刷された封筒を見て確かめていた。そして病室のありとあらゆるものの白さに責められている気がして突然怖くなり涙が止まらなくなった。このあたりはTwitterでも書いたと思う。

そうした症状を経て退院し、入院したことで家族や周りに心配をかけたから気持ちだけは元気でいなくちゃ!といった方向に考えが偏ってしまった。見た目では回復しているように見えた。だからこそ最初に書いたようにじわじわと、でも確実にわたしはこわれたのだ。

気持ちの浮き沈みの激しさを埋めようとお酒と薬を併用し始めた。

もともと会社員時代、仕事のストレスから睡眠薬を大量に飲むオーバードーズで死にかけたことがあったので、そうした行動になだれ込んでいくのはたやすいことだった。だいたいぶっ倒れない量を自分で見極めて飲んでいたつもりだったけれどアルコールは不安や希死念慮といっしょにわたし自身を奪っていく。

でも酔いがさめてしまったらわたしは元気を保てなくなる。

その元気がまやかしでもよかった。家庭の事情があり入院できるほどのお金が実家にないから、そうするくらいなら自分で首を吊って死のうと密かに決めていた。

実家の家計が苦しいからこそわたしがちゃんと自立して働かなくちゃいけなかったのにできないのが悔しくてたまらなかった。それに家族の生活が苦しくなるくらいならわたしが死にたかった。いままで馬鹿なことばかりしてきた親不孝な娘ができることはこれしかないと本気で考えていたのだ。

だからアルコールで誤魔化せるうちは、頼むから、と自分自身を騙してアルバイトを探したりしたがますますバグが起こる。

記憶がはちゃめちゃに飛んだ。知らないうちに知人や友人に連絡を取っていた。なにも覚えていないくせに文章はしっかりしていて、内容もぜんぶほんとうのことだった。自分でもびっくりした。
友人と食事へ行って、食べたくて食べたくて仕方なかったメニューを前に、わたしはひと口食べてカバンを持ちそのまま家に帰るという奇行に走った。気がついたら家のベッドの上、友人から「突然出て行ったけれどどうした!?」と怒涛の連絡。それでもこんな馬鹿なことをやっているなんて誰にも言えない。

そして引き金を引いたのが先週金曜日のこと。

通院帰り、いつものようにパニック発作が襲ってきた。吐き気がひどくてえずき、その場にしゃがみこんだ時だった。

ちょうど新宿西口の居酒屋の前で、酔っ払いと間違われたのか外でゴミ箱を洗っていた店員さんにホースで水をかけられた。

その日生まれつき弱い膝の調子が悪く、すぐに逃げ出したかったのにできなかった。

店員さんはすぐ店の中に引っ込んでしまった。

呆然としながらも濡れた服を絞り、店の外観を写真におさめてその場を後にした。けれどその店に電話して怒る気力なんてわいてこなかった。ただただ、わたしは、

消えていなくなりたいと強く願ったのだ。

帰宅してなにもできなくなった。部屋はいつも以上に荒れた。もうどうでもよかった。このまんまいなくなりたかった。

お世話になっている福田裕彦さんに起きたことだけをなんとなくさらっと LINEで伝えた。さらっと伝えたつもりだったけれどわたしの異常を察知したらしい。

昨日、カーテンを閉め切った部屋で横たわっているとわたしの名前を呼ぶ父によく似た声が聞こえてきた。ついに幻聴まで聞こえるようになったかやれやれ、と思ってiPhoneを手に取ると母親からめっちゃLINEが来ている。

「不在着信」
「み~ちゃん家にいる⁉︎パパとママが上京しました」
「家前まで来てるよ~」
「不在着信」
「不在着信」

どうしてこうなったかというと着信音が怖いためiPhoneは常におやすみモード、インターフォンの音でパニックを起こすため鳴らないようにしてあったのだった。

両親が来た。突然、北海道の実家から。
福田さんから母親に連絡が行ったようだった。

ドアを開けて、泣きながらわたしを抱きしめる2人が言っている内容は鬱のわたしには完全に覚えていられなかったけれど、とても心配してくれていることはわかった。

そして母がひとこと言った、
「みーちゃん、頼むから入院しよう」

その一言を言うために、人生で片手で数えるほどしか乗ったことのない飛行機を手配してそれに乗って、2時間近く空港から電車に乗って2人は来てくれたのだ。

しかも上京する時わたしはひとりで来たので、両親がこの家に来るのは初めてだ。東京なんてちゃんと来たことないのに、使いこなせているとは到底言えないiPhone片手に調べながら来てくれたのだ。
清志郎が言ってたように愛ってやつはとてつもないな。

父は「最悪の事態も考えたよ」と笑っていた。そう言えば2月、祖父の葬儀の時、棺に花を入れながら「実菜美、頼むから俺より先にこうなるなよ。こうやって花を入れるなんて…」と声を詰まらせていた。

「また生きて会えた」、これはわたしが上京してから会うたびの父の口癖だ。

それから2人は何も言わずに部屋を片付けてくれた。

この梅雨にやられてカビてしまったカーテンを父が新しいものに取り替えてくれた。
これは実家を建てた時に両親が買ってきてくれて、わたしの部屋でずっと使っていたカーテンで、6年使った。上京した日、荷物に入りきらなくて雨の中不安と怖さと一緒に抱きしめて持ってきたカーテンだったから、新しいものを買っても替える勇気がなかなか出なかったのだ。

それに実家にいた頃のわたしが、またひとつ消えてしまう気がして。

わたしが書いた小説、「きみのまにまに」( https://monogatary.com/story/5282 )に出てくる絵美とはるちゃんもこんな気持ちでハンバーグを解凍したのかな、なんてぼんやり思っているうちに母が台所をピカピカにしてくれていた。

なにも出せるものがないので、冷蔵庫に入っていた手作りの梅ジュースを出した。けれどふたりはとても喜んで飲み、「みーちゃんの顔が観れたからまた明日から頑張れるわ〜」と2時間ほどで帰って行った。

でもわたしは知っている。
最後に会った時より2人がおじいちゃんとおばあちゃんに近づいてしまっていること。
ママがあまりの忙しさでものすごく痩せたこと。
お金がないのに往復8万円近くかけて来てくれたこと。

本当に嬉しくて、同じだけ申し訳なくて、その日は泣きながら寝た。目が痛くなったけれど悪い涙ではなかった。ひとりってこんなに寂しかったっけ、と驚きながらひさびさにぐっすり眠った。実家からひとりで東京の家に帰った時はなんとも思わなかったのにね。

今日、わたしは病院へ行って入院するための紹介状を書いてもらった。またパニックを起こして吐き気がした。でもいなくなりたいとは思わなかった。ちゃんと治して生きて働いて、また治療にかかったぶんのお金を返せるようになろうと誓った。

金が欲しくて 働いて 眠るだけ

そんな暮らしが当たり前にできることって 実は結構幸せなことだったんだな。たとえいいことばかりはありゃしなくても。

あとそれからもうひとつやりたいことがある。
入院するにあたって入院体験記、なんてのを調べてみたのだがこれがまた不安が増すばかりで…
怖い看護師さん、話を聞いてくれないお医者さん、周りの患者さんに怪我させられたり勝手に閉鎖病棟に入れられて拘束されて薬は10倍に増やされて目はうつろ、そして一生治らない…うおおおおうわあああああやめてくれえええと思ってSafariを閉じた。

だから怖くない入院体験記をこのnoteで書きたいと思った。同じ病気で、同じようにそうした文章にたどり着いて不安になっている人ってきっとわたしの他にもたくさんいるはずだから。

食中毒だって双極性障害だって病気という点では同じはずなのに、どうして途端に薄暗くなってしまうのだろう。
わたしは比較的軽症だからなんの参考にもならないかもしれないが無理のない範囲で書き残そうと思う。


というわけで近々入院します。
それだけのことを書くのにこんなに長くなってしまいました、ごめんなさい。
バリバリ働いて稼いで両親に恩返しするためにも治したいのであたたかく見守っていただけたら幸いです。体調によってはお返事できませんが、みなさまからの愛のメッセージ待ってます。(勝手だな)

すでにくれた方々、本当にありがとう。愛してまーす!

母が上京する時に持たせてくれたこのメモに書いてあることを叶えるんだ。

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