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「逆CPを憎む腐女子が分からない」私たちもまた同じ感覚を持っている

 ︎︎あなたは逆CPを憎む者を不思議に思った事はあるだろうか。またはあなた自身が憎しみを経験したことはあるだろうか。

「なんでそうなるのか分からない」という感覚

 この「憎む」とは、「好みではないから読まない・解釈が合わないから萌えない・味がしない・楽しみ方が違うから距離を置いている」といった類のものではない。

 明確に「許せない」「なんでそうなるの」「不快だから目に入れたくない」という感覚を指す。

 また、「憎む」と「憎いから相手を攻撃する」は別だ。後者は自分の主義を他者に強要する論外なのでここでは扱わない。ここで語るのは、「攻撃したり楽しみ方を否定はしないが、私はどうしてもそれが嫌だし辛い」という感覚である。

 ︎︎例えばカップリングを楽しむ世界を全く知らない一般的なファンからしたら、いずれも原作にはない性行為の妄想なのに左右に強い拘りや拒絶反応を持つ感覚はなかなか理解できないだろう。

 ︎︎そして同じ腐女子でも、原作の距離感や温度感を重要視する関係性萌え寄りの腐女子にとってもまた、カプ界隈における逆カプや他カプへの憎しみはなかなか理解しづらいものだったする。

 この「理解しづらい」は、そのような感覚がある人間は問題があるという意味ではない。「そういう世界なのは分かるが、自分にはない感覚なのでよく分からないままそういうものなんだなあと思っている状態」であることに留意いてしただきたい。逆CPを憎む者への批判の意図はない。

 当然、関係性萌え寄りの腐女子だって好みのカプ、味がしない・解釈が合わないカプや左右はある。しかしそれはキャラの好きな要素の違い・萌える左右の型のパターンの違いであって人それぞれの好みの問題だ。

 苺とホイップクリームの組み合わせがが好きだからといって、別の果物(他カプ)と合わせる人を嫌うのは奇妙だ。自分が梨が苦手だからって、梨が好きな人を憎むようになるのは奇妙な話だ。

 私はそんな風に考えていたのだ。私はカップリングの好み・苦手を人それぞれの食べ物の好き嫌い、趣味嗜好の違い程度に捉えていたのである。

 しかし私はある日、長いことよく分かっていなかった「逆CPを憎む」に類似した感覚を自身の体験を持って味わうことになる。


初めて感じた「なぜそうなるのか分からない」という感覚

 私がサンジの原作の解釈が難しく悩んでいた時、様々な解釈を読む中でどうしても解せない解釈に出会った。

 幼少期のサンジは兄弟たちと同じように平気で「女を蹴ってもいい」を思っており、ゼフのおかげで女を蹴ってはいけないと学んだ。

ある時期に界隈で流行った解釈

 この解釈は「サンジの兄弟は平気で女性を傷つける人間である」という本編描写と下記の描写が合わさって生まれた解釈だろう。

引用)尾田栄一郎|ONE PIECE カラー版 84巻 67p|2007年|集英社

 しかし上記の文脈を読むと、子どものサンジがこのような発言をするのはゼフの元で「蹴る教育をされてきた」からだ。自分たちを蹴って育てているのだから女も蹴って育てればいいという意図の発言だ。ゼフは自らの蹴る教育をしてきたなかで「女を蹴ってはいけない」と教えただけである。

 なによりサンジの幼少期は原作で明確に描写されている。感情のない冷酷な兄弟と共に生まれながらも、サンジはひとり感情を持ち優しく生まれ、一貫して優しい子である描写がされている。

 私はこの解釈が流行っているのを見て現代のオタク達の読解力に唖然としそうになったが、私も長年オタク界隈の認知を考察してきた身だ。このような解釈が生まれる仕組みは知っている。

「興味・高揚資本主義」の中で無かったことにされる原作の姿


 オタク界隈は「興味・高揚資本主義」だ。作品の触れ方において「読解」とはもはやマイナーな楽しみ方の1つでしかない。作品は読み取るためではなく「気分を高揚させるため」に触れられ、楽しまれている。

 その中で「読解」という楽しみ方を好むも者もまた、「読解という楽しみ方に高揚するから”読解”している」にすぎない。私たちは人それぞれ自分の興味・高揚によって作品に触れているだけで、作品の楽しみ方に正しい・間違いは存在しない。

 作品内で描かれる男同士の複雑な執着を見て「こんなに強い感情は恋愛感情に違いない!」と語る人々は、決して読解力がなかったり恋愛以外の感情が理解できないわけではない。彼女らはただ「執着の複雑性の読解に興味・高揚がない」だけなのだ。彼女らにとって楽しいのは「複雑性の詳細」ではなく「恋愛のような強い執着が発生していることへの強い高揚」だ。

 オタク界隈の全ての楽しみ方や萌えは、人それぞれの作品に対する興味や高揚、楽しみ方の違い・好みのポイントの違いでしかない。各々の「好き・興味・高揚」に従って自由に楽しんで良いのがオタク界隈だ。

 私はカプ視点で原作を楽しむ人々なら一周まわってそのような楽しみ方をしているのだなと思える。しかしカプ視点ではない、まるで「原作を読解した上での解釈」という振る舞いで行われる、要素を抜き取って高揚するためだけに組み立てられた二次創作のようなものを「原作への解釈」という体で語られることにどうしても強い嫌悪感を感じる。

 それは楽しみ方の違いで済まない明確な嫌悪感だ。たかが趣味嗜好を元にした楽しみ方の違いでしかないのに、なぜこんなにも嫌悪感が湧くのか。

 オタク界隈において原作の解釈とは読解の元で生まれるものではない、高揚の元で解釈が生まれる。

  • 実は尾田先生は前々から伏線を張ってたんだ!という気付きへの高揚感。

  • サンジが感情のない冷酷なジェルマの因子を持っているワクワク感への高揚感。

  • ゼフの元で育ったから女を蹴らない人間になったという、ゼフとの関係の素晴らしさへの高揚感。

 このような高揚感によって原作への解釈が生まれる。何度も言うように「オタク界隈は高揚・興味至上主義」だ。大切なのは作品の読み取りではなく、高揚することだ。ここにおいて、高揚しない・興味のない原作の描写は無視される。

 私は原作で描かれたサンジがサンジという人格を持ってサンジの人生を歩んできた姿が大好きだ。それは私にとってキラキラと輝く宝石のようなものだった。原作で描かれたその姿を絶対に無かったことにしたくない。

 伏線に気づいた高揚感を得るためなら、サンジの設定への高揚感のためなら、ゼフとの素晴らしい関係性への高揚感のためなら、

 サンジがどのような人間でどう生きてきたかは、他の人にとって「何の価値も魅力もない石ころ」だから忘れてしまえるのだと気づいた時、それを「原作への解釈」とされ、原作の姿が無かったことにされた時、私は行き場のない悲しさを感じた。

 私にとって作品の読解によって読み取れるキャラクターの生きてきた人生の全ての姿は、私にとって最もキラキラ輝く大切な宝石だ。

 「読解(読み取る)」とは、原作で描かれるキャラクターの姿を知るとは、自分のまだ知らない「生きる」ことを学ぶ手段である。私は作品の中で生きるキャラクターの姿を見て「生きる」ことを沢山学び、勇気と希望を与えられてきた。

 そうやって私のオタクのルーツを考えた時に気がついた。


 私たちは決して趣味嗜好の違い程度で他者の楽しみ方に強い感情が発生するわけではない。


 それは趣味嗜好の範囲を超えて、自分の「人生観」に強く根差した部分で解釈違いが起きたときだ。

 自らを成すアイデンティティの一部が誰かにとって何の価値もない事実を浴びた時、人は強い感情が発生する。


 あるフォロワーは言った。「私は長年スポーツをやってきたから、作品において物語の展開の為に、二次創作のエロシチュのためにユニフォームが無下に扱われることがどうしても許せない。」

 自分にとって最もキラキラ輝く大切な宝石が、誰かにとっては何の価値も魅力もない石ころである事実へのショックを受けた時、人は他人の楽しみ方に強い感情が発生するのではないか。


人それぞれの最もキラキラ輝く大切な宝石

逆カプを憎む者にとっての宝石

 逆カプを憎む感覚がよくわからないと言いつつも、腐女子に関する考察を読み漁ったり界隈の中で感じる傾向からなんとなく推測は立てている。

 ある腐女子の層が逆カプや他カプを憎みやすいのは本人のジェンダー感など自分の趣味嗜好にとどまらない、自分自身のアイデンティティに深く根ざす価値観をカプに反映させて楽しんでいるからではないだろうか。

 私は腐女子界隈の考察をする中で、ある非常に納得できる意見を貰ったことがある。

 「性行為をするなら必ず付き合って欲しい。恋愛感情のない性行為は嫌だ。」

 シンプルだがこれは非常に理解しやすい視点だった。

 他者のカプ萌えの解釈違いに強い拒絶反応が起きるカップリング萌えの層において、カップリングのその姿かたちとは己自身の生き方の価値観や感覚が非常に強く反映されたものだ。

 この層にとってカップリングとは、趣味嗜好を超えた「己のアイデンティティ」によって組み立てられるのではないか。己の生き方におけるジェンダー観、美徳や思想がカップリングやキャラクター解釈に強く反映されるとしたら、カップリングの組み方における解釈違いとは己のアイデンティティにおける解釈違いだ。


読解のない原作解釈が許せない者にとっての宝石

 逆に関係性萌え寄りの腐女子の層はカップリングの好みはあれどそこに強い拒絶心が発生することはない。
 その代わり作品の読み取りに非常に強い価値観があるのがこの層だ。

 「原作で描かれた推しの生きてきた人生を無かったことにしたくない」

 「自分の理想や萌えの型に推しを押し込めて原作の姿だと捉えるのは、原作に描かれている推しの生きている姿の否定になる」

 私を含めたこの層は己の萌えによって偏った捉え方になることを一番恐れる。常に自分の萌えを疑いながら作品を読んでいる。「自分の萌えを踏みにじってでも描いてあることを読み取りたい」と書くとドエムのようにも思えるが、その本質は「萌える」ことより「読み取ること」への高揚が強く上回っていることに由来する。

 この層にとって「作品やキャラクターを深く読解し味わう」とは、自分をオタクたらしめる強い興味と熱意の根源だ。オタクとして生きてきたアイデンティティなのだ。

 決してこの層は原作厨ではない。二次創作も楽しむし、二次創作で様々な解釈が練られることはむしろ二次創作の醍醐味であり最も楽しい部分だ。

 だが「作品の読解を行わない高揚するためだけに組まれた解釈」を「原作の解釈」とされ、界隈が「原作に書いてあるのはこうだったんだ!」と騒いだ時、原作の他の描写や文脈がまるでなかったかのように扱われたとき、私のオタク活動の領域である「原作を読解し味わう」という楽しみ方の土俵にそれを持ち込まれた時、

 それは原作の物語と原作に描かれたキャラクターの人格と人生の冒涜のように感じてしまうのである。

 決してその楽しみ方をするなという話ではない。そのような解釈を好む者が読解(文脈の読み取り)に興味や高揚がないことも知っている。自分と同じ楽しみ方を強要するつもりはないし、作品に対する楽しみ方が違うことも、どういう視点から楽しんでいるのかも分かる。作品の楽しみ方は人それぞれ自由だ。

 しかし私はやはり「原作を読解しない、要素を抜き取り萌えるためだけに組み立てられた二次創作のような”原作の解釈”」を楽しんでいる方々と相容れることはないだろう。それは、カップリングや解釈の合う合わないの趣味嗜好による棲み分けではなく、私がオタクとして生きてきたことの信念(アイデンティティ)において絶対に相容れない部分だ。

アイデンティティの置き場所

 私たちは自分と異なる他者のことはなかなか理解できない。そしてつい自分のことを棚に上げて、たまたま自分にとって対した問題ではない場所で「たかがそんなことで」と他者に善良的な人間であることを求めてしまう。しかし本当は誰もが自分のアイデンティティの居場所で強い感情が発生するのではないか。

 私がはっとさせられた言葉を書く。

自分に自分の地獄があるように、誰かにもまた誰かの地獄がある。

 もちろん実際に他者を攻撃するのは論外だ。だが「己が己であるというアイデンティティを持つがゆえに現れる強い拒絶反応」はきっと誰もが持つものだ。でもオタク活動におけるアイデンティティの置き場所が人それぞれ違うから、他者の地獄はなかなか理解できなかったりする。

 だがそれは蓋を開けてみれば、ある者はカップリング解釈が己のアイデンティティに深く根ざしており、またある者は作品に対する触れ方が己のアイデンティティに深く根ざしている。その程度の違いでしかない。

 自分がある場所において自分の地獄があるように、自分の知らない場所で他人は他人にとっての地獄がある。

 それを少しでも意識できたら、人は自分と他者の不完全さにもっと寛容になれるのかもしれない。


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