古墳時代から飛鳥時代

古墳時代の成立は現代においても分かってません。
古墳時代の成立前には
文献が見つかってなく「空白の150年」というのが
日本史には残ってます。

150年後、日本列島を見渡すと
古墳と呼ばれる豪族の墓が各地に存在してました。
特に大きな古墳が大阪にある
【大山古墳】になります。
大山古墳は現代の皇室につながる一族の墓で、
当時は大和朝廷と呼ばれました。

大和朝廷は豪族の中で
1番の支配力を持ち各地に領地は持ちつつ、
領地から豪族たちを監視する事で権力を持ちます。

はじめは大和朝廷と争っていた豪族は、
次第に大和朝廷と友好関係を持ちます。
その代表格が【蘇我氏】となります。

蘇我氏は海外の文化を積極的に取り入れたり、
大和朝廷の皇子たちと
婚姻関係を持つなど豪族の中で、
一番大和朝廷に近い存在になります。
それに警戒心を持ったのが
大和朝廷の直属の部下である【物部氏】になります。

【蘇我氏】VS【物部氏】

結果は【蘇我氏】が勝利しました。

では彼らはなぜ争ったかというと、
当時中国大陸は「隋」という大帝国が成立しました。
この「隋」に対して、
誰が主導権を握って政治をするのかというのが、
蘇我氏と物部氏の戦った意味となります。

勝者となった蘇我氏の長者、
【蘇我馬子】はどうしたか
自身の姪と孫と共に国づくりをしようと考えます。
その姪が【推古天皇】で、
孫が【聖徳太子】となります。

【推古天皇】【聖徳太子】【蘇我馬子】で、
冠位十二階の制と
十七条の憲法と
遣隋使の派遣を行い、
倭国が隋と対等の国家であることを宣言します。

みんなで協調したかのような状況でしたが、
3人が亡くなると情勢が一気に変化します。
まず「隋」が滅び、「唐」が成立します。
そして朝鮮半島に進出をします。

この「唐」と
どういった外交するかという問題が起こり、
この対策に対する主導権を馬子の孫、
蘇我入鹿がほぼ単独で握ろうとします。
これに反発したのが、
皇室軍団と反蘇我勢力になります。

皇室軍団と反蘇我勢力とは誰か?

その名は、
「中大兄皇子」と「中臣鎌足」になります。
2人は蘇我入鹿のほぼ単独政権をさせないために
入鹿暗殺を企てます。
それを「乙巳の変」といいます。

「乙巳の変」によって対唐朝鮮半島対策は、
皇室中心で行うことを宣言します。
これを「大化の改新」といいます。

大化の改新によって何をしたか。
中大兄皇子は疑いのある豪族たちの粛清を行います。
さらに唐新羅連合国と戦った
「白村江の戦い」に豪族たちを送り込んで、
その勢力を削ぐことに力を注ぎます。

しかし白村江の戦いでは
唐新羅連合国に大敗してしまったので、
いつ日本本土に乗り込んでくるか分からない
恐怖に晒されます。
中大兄皇子は天智天皇として即位し、
唐新羅連合国が
攻めてくるかもしれないという口実を元に、
都を内陸に移し、
戸籍を集めて
兵力と食料の確保をしながら
豪族たちの管理に努め、
大和朝廷中心の中央集権国家を形成します。

これでいつ攻めてきても大丈夫になった矢先、
なんと「唐」と「新羅」が仲違いをしてしまい
日本を攻める暇がない情報が飛び交ってきました。
「日本を攻めてくるから
天智天皇に従ったのに何もない、
でも制度はそのまま続行」ということで、
だんだんと
反天智天皇勢力が現れるようになります。
さらに
天智天皇の皇太子であった
大海人皇子も皇太子を辞退し、
山奥に出家し引退してしまいました。

そんな最中、天智天皇は亡くなってしまいます。

天智天皇の跡を継いだのが大友皇子でしたが、
この皇子に
ついていくかどうするか問題が勃発します。
そしてその対抗馬としてたったのが
吉野で引退生活をしていた【大海人皇子】です。
大海人皇子は
反天智天皇派の豪族を従えて大友皇子を追撃します。
これを【壬申の乱】といいます。

壬申の乱で勝者となった
大海人皇子は【天武天皇】として即位し、
さらに強固な天皇中心の国家を作ることに
取り組みます。
しかし
天武天皇は志半ばで亡くなってしまいますが、
王妃の持統天皇がその意思を受け継ぎ、
倭国と呼ばれた国名を「日本」と名付けました。
こうして天皇を中心とした国家が始まりを迎え
【奈良時代】に突入します。

#日本史 #歴史 #飛鳥 #古墳

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