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あの夏の選択

 僕の人生において、2006年の7月と2007年の7月はターニングポインントである。
 2006年7月、僕は不登校になった。

2006年7月 不登校になる

「ちょっと考えたいことがある」と母に言って1日休んだ。翌日は学校に行ったもののその次の日には体調不良だと嘘をついて1日休み、結局その週は休んでしまった。
 土曜日くらいに母から「考えたいことってなんね?」と聞かれたが、実のところそれの正体が自分でもわかっていなかったため、「自分でもよくわからん」としか答えられなかった。
 週明けからまた登校したが、母と担任が上手いこと連携していたのか、僕は「教育相談室」というそれまで全く縁のなかった場所に連れていかれた。そこには相談室担当の先生がいて、いくつか簡単な質問をされた。

「何か最近クラスで嫌なことがあった?」
「いじめられたとかなかった?」
「何か相談したいことはある?」

 僕は答えられなかった。というか、イエスかノーかで答えられる質問だったから、全部「いいえ」と答えた。ないものはないのだ。学校に行きたくない理由を探しているのは僕も同じなのだった。両親も先生も頭を抱えたと思う。
 結局、夏休み直前でそこまで授業としても重いものはなかったので、担任の配慮もあって、7月と8月(母校は夏季補習というインチキみたいな補習授業があり、補習とは名ばかりの普通の授業があった)は完全に休むことになった。

 この年の夏はかなり辛かった。感情の起伏が激しくなることなどなく、穏やかには過ごしたと思うが、両親は心配するし、自分でも原因がわからないし、じわじわとゆるい地獄に吞まれていくようだった。引きこもりではなかったが、ほとんど家の中にいた。何をしていたかはよく覚えていない。ボーっとしていたか、自宅にあったスーファミやプレステで遊んでいた。(そういえば、格闘ゲーム「MELTY BLOOD」にハマったのはこの夏からだった。)
 解決策のない、じわりじわりとしたどうしようもない暗闇のなかに放り込まれて、自分はこれからどうしたらいいんだろうと泣いた。

 今ならわかる。
 僕にはゆっくり自分なりに成熟する時間が必要だったのだ。
 周囲のクラスメートは、だんだん自分を置いて大人になっていく。対して自分は子どものままだった。自分が他人とどの程度の距離を保てばよいのかわからない僕は、自分の発言でたびたびクラスメートを苦笑いさせていた(これも後から気づいたことだ。あれは空気の読めない僕に対する苦笑いだった!)。そうした肌で感じる空気や、クラスメートと自分の間にある差が積りに積もって、疲れとして現れたのだろう。
 このまま大人になることはできないと、心のどこかにある僕のアラートが鳴ったのだ。このまま、学校という時間のレールが敷かれた場所にただいるだけでは、生きていけんようになるぞ。お前の人生はそれでいいんか? もう少し人とは違う時間が必要じゃないか?

 結局、先の見えない苦しさは、高校を留年しようと決めた12月になるまで続いた。
 しかし、そこまでして苦しんで、他の同級生よりも時間的な遠回りはしたことは、結果的に良いように働いたと思う。
 2006年7月から始まるつまづきがなければ、僕は次なるターニングポインントを迎えられなかっただろう。

2007年7月 文学って、面白そう

 2007年は、いわゆる「ダブり」と言われる年だ。留年してもう一度同じ学年をやる。クラスメートは一つ年下。あまり多くの人が経験することではないだろう。慣れない環境だ。
 しかし、「この学校で勉強をやらされないと大学には行けないだろう」と考えて自分で留年の道を選んだ僕は、この時点ですでにある程度の開き直りができていた。「どうせダブりだし、周りから浮いていてもいいや」と、良い意味で周りに遠慮しなくなった。自分が自分であることを認めることができて、今までふわふわ浮いていた自分の存在を世の中に繋ぎとめることができたのだろう。変人としてではあるが、ある程度は人との距離も固定できるようになって(昔からするとマシという程度)、けっこう楽になったなと感じた記憶がある。

 授業は教室で受けたが、このときはまだ学校生活の拠点を教室に移すことができていなかった。僕の生活拠点は「教育相談室」で、そこには僕と似たような境遇にある人や、今でもゆるくつながりのある後輩たちがいた。僕ともう一人の同級生で文芸同好会をノリで作って、教室に行かない連中を巻き込んで相談室にたむろしていた。

 何の気なしに小説を書き始めたのは、ちゃんと覚えてはいないが、前年の11月くらいだったかと思う。とにかく何か自分が面白いと思うものをガラケーに書きなぐって、小説投稿サイト(個人が運営しているやつ)にアップしていた。最初に書いたのは病院で男の子と女の子が出会う話だった。拙く、都合の良い物語だった。けれども、思うにそのときの僕には自分で生み出す物語が必要だったのだ。自分の物語を自分で生み出していく、それが人生のなかには必要なのだということを、もがきながら理解していったのだと思う。
 期を同じくして僕は小遣いで駅前の本屋で本を買うことを覚え、いろいろな小説を読むようになった。覚えているもので、最初に買ったのは葉山透『ニライカナイをさがして』(富士見書房)と柊ハルヤ『クライム・ハウンド』(スーパーダッシュ文庫)だった。もう古い本だ。アマゾンにも中古がかろうじて残っている状態だ。読書歴が浅かった僕はこの2冊から未知の充実感を味わい、そこから縦横に読む範囲を広げていった。主に読むのはエンターテイメントだった。

 それがあるとき、橋本紡『半分の月がのぼる空』と出会った。今は文春文庫から出ているが、最初は電撃文庫から出ていた。
 僕の書いていた小説がこの『半月』に似ていると、僕の小説を読んでくれていた人から言われたのがきっかけだった(似ているとは言っても、ボーイミーツガールもので、月がモチーフになっている程度の共通点しかなかった。言うまでもなく『半月』の方が断然面白い)。まったく知らない作品だった。高校生のころの僕は、ライトノベルコーナーのカラフルな感じの空間に入るのがとても恥ずかしく、わかりやすいライトノベルには触れたことがあまりなかったのだ。
『半分の月がのぼる空』は当時の電撃文庫刊の小説のなかでは異色の人気作(当時現代日本が舞台のラノベは珍しかったらしい)で、すぐに書店で見つかった。僕は1巻を買って2日くらいで読んでしまい、また次の巻を買ってはまたその日のうちに読んでしまい、ということを繰り返して、2週間くらいで全8巻を読み切った。
 夢中だった。自分と同じ高校生男子が、大切なものを手に入れるために未熟な高校生としてもがきあがく姿に、心を揺さぶられた。

 これがきっかけで、僕はあることを考え始めた。
「本の面白さのルーツはどこにあるんだろう」
 どこに行けば小説の「面白さ」を考えることができるのだろう。自分が面白いと思ったものを追究したい。「面白い」とは何だろう。時代が変わると「面白い」はどう変わるのだろう。きっかけは、そんな単純なものだった。
 そして漠然と、それが勉強できるのは文学部だろうと考えた。法学部志望だったのを一転して文学部志望に変えた。先生にも相談し、親にも相談した。法学部出身の父はちょっと難色を示したが、好きにしたらいいと言ってくれた。

 まだ迷いはあったものの、自分の行く道を自分で見定めたのが、2007年の7月、夏休みの前だった。
 結果的に、僕はその翌年、文学部を受験して合格する。最初想像していたのとは違う「文学」という学問の道に足を踏み入れたが、作品の「面白さ」や「魅力」を追究するという根本的な姿勢はかわらないように思う。文学部以外の学部に進んだとしたら、ということが考えられないほど、どっぷりと大学生活に浸かることができた。

あの夏がなかったら

 2006年7月に、もし不登校にならなかったら。自分の未成熟に鈍感なまま、悩むことも苦しむこともなくそのまま先へ先へと進んでいたら、どうなっていただろう。2007年7月に、やはり実利を重んじて法学部を志望して文学部への道を閉ざしていたら、どうなっていただろう。

 おそらく、今のようには生きてはいられまいな、と思う。
 今だって僕は未成熟だ。精神的に幼いし、仕事が辛いと嘆いてはすぐに死にたくなるし。自分ではなかなか物事を決めきれないし、融通もきかないし気もきかない。たくさんの人の中で望ましいコミュニケーションをとることもできない。大人ってどうやって生きているんだろうと不思議に思いながら、それができない自分を嫌悪して泣きそうになり吐きそうになりながら、とうとう三十路の年になってしまった。

 でも、なかなか将来を見通す前向きな姿勢をとれなくても、じっと下を向いて、自分の足元を見ることはできるようになったのかなと思う。人として生きるとき、自分の立脚点はここなんだ、忘れちゃいけない立ち位置はここなんだ、と確認することができる。理想は、自分が感じた痛みと、文学が教えてくれた。

 仕事柄、毎日未成熟な青少年と格闘している。
 いろんな大人がいる。そのなかには、子どもの未成熟は叩き潰すべきものなんだ、とか、未成熟であることを上から押さえつけるようにわからせるのが大人の仕事なのだ、とか考えている大人もいる。僕は悲しくなる。

 子どもが未成熟であるとき、それは「もがき」であることも多い。叩いたり潰したり抑え付けたりしたら、溺れてしまう子どもの方が多いと思う。僕は、そして彼らは、自分が至らないことなんてわかっていた。知っているんだ。ただ、あふれるほどの未成熟さで世の中をどう泳ぎ切っていいのかがわからないんだ。
 だから、大人社会という大海に移ってまだもがいている僕は、昔いた小さな池でもがいている子どもたちの手をちょっとだけ取って、ほら、こうやったら泳げるんだよ、と伝えていきたい。それが、あの夏を経た僕のできることだろうと思う。

 人に自分をどう説明していいかわからなくて途方に暮れている過去の僕が、姿かたちを変えて今の僕の前にやってくる。そのとき僕は、いつでもあの夏を思い出そう。
 解決するには時間がかかるかもしれない。もしかしたら一生向き合わないといけない問題かもしれない。でも、僕はそれにかける時間が無駄ではないと知っている。そういうことに時間をかけたり猶予をもらったりすることは、とても大切なんだ。

 大丈夫。たぶん君は10数年後、この夏を思い出しながら、お酒でも飲んで懐かしんでいるはずだ。だからそれまで、ゆっくり待ってもいいんだよ。
 そう言ってあげられる大人でありたい。

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