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【思うこと】「とりあえず話は聞く」の姿勢

高校2年生のときの離任式で、ある先生がこう言った。

「とりあえず、人の話は最後までちゃんと聞きなさい。」


この言葉は高校3年生に進級してからも、なんとなく私の中で繰り返しリピートされていた。というのも、このとき17歳の私は、論理的でないことをいう大人の話は聞かなくていいのではないか、ということについてよく考えさせられていた。先生と生徒という関係というだけで根性論だったり根拠のない話だったりを聞かされて、それが正しいのだと無理やり飲み込まなければならない空気にうんざりしていた。

大人はみな正しいことを言うのだから当然従うものだと、みんな幼い頃から刷り込まれている。先生と生徒、先輩と後輩、親と子というように、明確な上下関係のある世の中で生きているからみんな最初はそう信じて疑わない。しかし、健全な成長をすると必ずしも目上の人が正しいわけでないことに気づいていくものだ。
だが日本の学校社会および日本の生活は、この健全な成長を抑え込むように、年功序列や上下関係の鎖でわたしたちを縛りつける。広い世界に隔離された小さな島の中でさえ、自由に動くことを許されていないような気持ちだ。

ここで、すべての人の話を聞く意味を考える。そのときの私の結論は、「自分の意見が固まる」だ。
人はどんな意見に対しても、賛成と反対が大体判断できる。このとき、なぜ賛成か反対かを考えて言語化することで、自分がどういう考えの持ち主なのかがはっきりするのではないかと考えたのだ。この考え方には自分でも大変納得し、今でも自分のポリシーとして頭の片隅に置いてある。


納得できない話や理不尽な話を「そんな訳あるか」と聞き流すのか、自分に有用なふうに利用するのかはその人次第だと思う。私は人の話に対して毎回反芻を行う必要はないと思うが、いやでも聞かなければならない話があれば、いいように使ってやろうじゃないか。受け取り方は受け手が選択できる。

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