何のために笑ってるのかわかんない

わたしは昔から他人の目を異常なほどに気にする人間だ。親しい人ほど塩対応になる、というのはまさにわたしみたいな人のことだと思う。それなりの距離の人と話していると、自分がどういう自分なのかわからなくなってしまうのだ。

たぶん人間は、それなりに外面を取り繕って生きているはず。自己について葛藤しているわたしみたいな奴は、むしろそんなに外面を作り上げていないほうだと思う。だからこそ悩むんだと、わたしはこんなふうに悩みたくなかったと、誰に叫べば良いのかわからない。  

思えば昔からこういう悩みをずっと抱えてきたけれど、昔は自分じゃない自分と向き合う時間はそんなに長くはなかった。本当の自分はまだわからないままではある、でも、今のあなたはあなたですかと聞かれたら、はいそうですと言えるくらいにはわたしだった。社会人になって、わたしはどこに行ってしまうのだろうと、とても怖い。

わたしは他己評価が案外高い。覚えが早いとか、対応力があるとか、肝がすわってるとか、何でなんだろうという言葉をかけてもらうことが多い。それは嬉しいことなんだけど、あまりにも自分との乖離がでかすぎる。頑張らないと人と同じ土俵にも立てないから頑張っているのに、こいつはできるんだみたいに思われるのはいやだ。できない自分はいやなんだけど、もとからできてるわけじゃないしってねえ。それを知ってもらいたいと思うのはただのわがままだから、ただ頑張っている。

こんなにも自分じゃない自分でいるのに、どうして悲しむ時は自分なんだろう、と思う。安全なところから善人でいるのはいやだから、何を見てもただ働くだけだと思っている。そういう覚悟を決めて公務員になった、わたしは。でも、しんどいことを色々見ることもある。悲しいときだけ顔を出すわたしは、いつになったらすべてに慣れるんだろう。慣れたくないと思うけど、慣れないとわたしがいつか壊れるんだろうと思う。働きたくないけど、働き続けたいから、壊れないように心をきちんと持っていたい。めんどくさい。

誰からも求められてるわけじゃないから、笑わなくたって良い。でも笑ってしまうのは、他人の目を気にしすぎるからだ。「嫌われたくないからでしょ」と同じサークルの人は言ってたけど、それだけじゃないんだよ、誰のことも傷つけたくないからなんだって。失言多いくせにそんなこと言うのはおこがましい、でも思う。そして笑う。もうそういう生き方になってしまったし、わたしのへらへらで誰かが救われるのなら、わたしの生きてる意味がやっと見つかるってもんだからサ。

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